わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

百人一首

わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人(あま)の釣舟
参議篁(さんぎたかむら)

百人一首の11番目の歌です。
作者が隠岐へ流される時に作り、京の宮廷の人々に送った歌。

語句

*わたの原・・・広い海。
*八十島・・・たくさんの島
*かけて・・・目指して
*漕ぎ出でぬ・・・「ぬ」は完了の助動詞。「漕ぎ出した」の意。
*人には告げよ・・・「人」とは、都にいる人々。
*海人の釣舟・・・「海人(あま)」とは、「漁師」の意。「釣り舟」を人間に見立てて呼びかける擬人法が使われている。

歌意


広い海のたくさんの島々を目指して、私は漕ぎだしたと、都の人々に告げてくれ、漁師の船よ。

作者

参議篁(さんぎたかむら。802~852)
本名を小野篁(おののたかむら)。参議岑守(みねもり)の子。
834(承和元)年に遣唐使副使に選ばれ、836(承和3)年に唐に向けて出発したが難破して帰国。837年の再出発の時に破損した船に乗せられそうになり喧嘩をしたため、当時の嵯峨天皇の怒りにふれ、2年間隠岐に流された。
後に文才を惜しまれ、都に戻され参議にまで出世している。六歌仙の直前の歌人で、古今集に6首入集しているが、むしろ漢学者として著名である。
京都の北大路通南、堀川通西に、紫式部と小野篁の墓と伝わるものがある。小野篁は、昼間は朝廷に出仕し、夜は ” 閻魔大王 ” に仕えていたという伝説があり、「 今昔物語 」などにも語られている。
紫式部は恋愛を題材として「源氏物語」を書き、その事で風紀を乱し、人々を惑わせたということで、「 死後に紫式部は ” 地獄 ” へ落ちた 」と考えられるようになっていた。しかし、紫式部を慕う人たちが「 紫式部を地獄から助けだしたい 」とすがったのが、夜に閻魔大王のお手伝いをしていた小野篁。小野篁から閻魔様にお願いをしてもらい、紫式部を地獄から救いだして欲しいとの思いから、お墓を隣同士にしたと言われている。

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