「我思う、故に我あり」と言ったフランスの哲学者デカルトは、私にとって批判の対象であった。詳しくも知らないのに彼の心身二元論の批判をして、全ては繋がっているという関係性の存在論を語ってきた。確かに心身二元論には無理があるし、「我思う、故に我あり」という第一原理も言葉が前提されていたりと、批判すべきところは多々ある。がしかし、それらを以ってデカルトを哲学者として全く評価しないということはできない。その後の哲学への貢献やその影響力の大きさは計り知れない。また、数学者としても偉大だ。解析幾何学の体系化、方程式論、未知数や既知数をX、aで表すこと、数の累乗の指数表記、X軸・Y軸の二次元の座標系すなわちデカルト座標など、多くの業績を残している。
彼の著書に『方法序説』という短い本がある。元々は3つの科学論文集を収めた500ページを超える大著だったそうだが、現在のものはその序文だという。デカルト自身の方法論の発見やその確立、また本の刊行に至るまでの経緯が述べられている。その中には4つの規則というものが紹介されている。「私の精神が達しうるすべての事物の認識に至るための真の方法」を探求していたデカルトは、論理学や解析、代数を学んでいた。それらはおびただしい数の規則や、役に立つもの、立たないものが入り混じっていた。よって「法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実をあたえるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される」ということを例えとし、それら3つの学問の長所を含みながら、その欠点を免れている方法として、4つの規則というものを信じていると述べている。
第一は、疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、判断に含めないという「明証性の規則」。第二は、問題を小部分に分割するという「分析の規則」。第三は、もっとも単純なものから始めて、もっとも複雑なものにいたる、順序を想定して思考するという「総合の規則」。第四は、完全な枚挙と見直しをして、何も見落とさなかったことを確信する「枚挙の法則」。
ここにあげた規則によってデカルトは、幾何学的解析と代数学のどんな問題も容易に解けるようになり、さらには知らなかった問題さえも、どういうやり方でどこまで解けるかを決定できる、と思ったそうだ。数学のことなど私にはよくわからないが、とにかく役に立つ規則だと思う。その後デカルトはこれらの規則を用いての思考を習慣づけ、さまざまの学問に適応し、最終的には哲学の原理を打ち立てることに努めたのであった。
これらはあまりにも有名なので、デカルトのものであるとは知らずに影響を受けていることもあるだろう。この4つの規則のうち、「問題を小部分に分割するという分析の規則」は、私にも身近である。卑近な例をあげると、私の仕事ではたくさんの落ち葉を掃除したり、森の中の枝を撤去したりすることがある。一つ一つは弱い葉っぱや枝でも、たくさん集まるとかなり手強い。葉っぱはかさなると重く、箒などでは動かない。湿気などを含むとさらに厄介である。枝などはもっと骨の折れる存在で、やり方を間違えると怪我をする。そんな弱くも強い存在たちと毎日戦う中で身につけた攻略法は、小さく分けることである。箒ではいてゆくなら、ちりとりでこまめに取り除いたり、表面の動きやすい部分だけをざっと取り除き、小さな塊に分けてゆく。そうすると集まって強くなっていた葉っぱたちが弱い存在となって、簡単に取り除くことができるのだ。
また事務的な仕事でも役に立つ。例えば何か催し物を開催するとした場合、会場の手配、出演者への連絡、広報、資金集めなど、やらなければならないことは本当にたくさんある。これらを一気にしてしまおうとすると頭がごちゃごちゃになり何をして良いかわからなくなる。また作業が進んでくると何をしたか、何をしていないかなどもわからなくなって、催し物の成功は見込めない。そんな時も催し物全体の仕事を書き出して分けてゆく。そして分類して順序よく並べるのだ。これなどは、第三の「もっとも単純なものから始めて、もっとも複雑なものにいたる、順序を想定して思考するという総合の規則」も使うとより効果的であろう。私の場合は細かな作業も工程ごとに分けて管理している。例えば、案内状を送る場合、封筒の準備、宛名印刷、封入物を折る作業など、それぞれを一つの工程として書き出し、優先順位やおおよその所要時間も付け加えておく。そうすると、ふとしたスキマ時間などに、優先順位が高く、時間内におさまる一つの工程を済ませてしまうことができる。優先順位の高いものから片付けることで仕事が進み、所要時間を把握することで、まとまった時間が取れない時に少しずつでも前進することができるので、非常に役に立つ。
西洋のデカルトに対して、東洋にも分けることについて思い出したことがある。いわゆる「孫子の兵法」には次のような文がある。
所謂、古の善く兵を用うる者は、能く敵人をして前後相及ばず、衆寡相恃まず、貴賎相救わず、上下相扶けざらしむ。卒離れて集まらず、兵合して斉わざらしむ。
訳
昔から戦上手は、敵の前衛と後衛の連携を断ち、大部隊と小部隊が協力し合わないようにし、身分の高い者と低い者が支援し合わないようにし、上官と部下が助け合わないように仕向けて、敵兵が分散していれば集結しないようにし、集合したとしても戦列が整わないように仕向け、戦闘が有利に進められるようにしたものだ。
つまり戦上手は、攻撃を開始する前に、敵軍の内部分裂や内輪揉め、内部抗争、派閥、離反、反目を生じさせ、弱体化を図るというのだ。これはある意味「分析の規則」によって、軍が「小部分に分けられて」、その結果弱くなってしまうことを言い表している。軍の部隊同士にはそれぞれ役割があり、互いに補い合っている。これらが協力し合うことで大きな力を生む。部隊同士が適切な仕方で協力し合うと、その力の総量は単純な足し算ではなく、掛け算で増えてゆくと言われている。つまり協力し合うことでそれぞれが持っている力の何倍もの力が発揮されるのだ。ここでは、その協力関係を断ち切ることによって、掛け算で増えた力の総数を足し算の総数へと減らして、弱くなった部分を順番に倒してゆくという作戦が紹介されている。数学や哲学の問題、落ち葉だけでなく、人間の集まりも、その内部を細かく分けられて、バラバラにされると弱くなり、簡単に攻略されてしまうということである。
この件についても私には身近に感じるところがある。それは離婚である。6年ほど前に別居をして、その後離婚をした。一時期、仕事の都合で家族と離れて暮らす期間があった。離れて暮らすことで共通の話題がなくなり、それぞれの楽しみができ、それぞれの未来像ができてしまった。その未来像は重なり合うことはなく、別居にいたり、そのまま離婚したのであった。子供は2人いるが、元妻が育てている。家族4人で仲良く過ごしていた時は、一つになっていたと思う。もちろん意見の違いや喧嘩をすることはあったが、それでも家族という一つの集まりであった。それが離れて暮らすことにより、物理的にも精神的にもバラバラになってしまったのであった。もちろん原因は離れて暮らしたことだけではないが、それが何かの均衡を崩してしまったことは確かである。
<分断>という言葉が聞かれるようになって久しいが、世界にはさまざまな対立がある。日本国内にも意見の違いから生じる争いは、SNSの時代をむかえ、より鮮明になってきている。『超限戦』という言葉を耳にしたことがある。これは1999年に発表された、中国人民解放軍大佐の喬良と王湘穂による戦略研究の共著の題名である。ここには、これからの戦争をあらゆる手段で制約無く戦うものとして捉え、その戦争の性質や戦略について論じられているそうだ。文字通り今までの戦争の限界を超える戦いのことである。鉄砲で撃ち合うような戦争は古いのかもしれない。SNSには、さまざまな情報が飛び交い、人々の意見をバラバラにさせ、国としての一体感が各国から消されているように感じるのだ。このような現象は、どこかの国が敵対する国の世論を操作しているのだということが、まことしやかに囁かれることもある。一つの国を滅ぼすために「分析の規則」を使うこともできるだろう。国の中を小部分に分けて、簡単なものから潰してゆくと、大きな国であってもいずれは潰れてしまうのかもしれない。我々の最も身近な自分の心の中に、戦争の手は伸びてきているのだろうか。
分けることの重要さだけでなく、分けたものをきちんと管理し調和させることが最も大切なことであると論じているものがある。古代ギリシアの哲学者プラトンの著書『国家』には、正義についての議論が対話篇という形で書かれている。正義を定義するにあたって、個人という小さなものの正義よりも国家という大きなものの正義の方がわかりやすく、国家の正義が分かれば個人の正義も分かるのではないかと、正義の国家、理想の国家が語られてゆく。理想の国家には<知恵>、<勇気>、<節制>、<正義>があるという。
<知恵>とは、「国を守るための知識」であり、具体的には政治家など国を支配、指導する統治者のことである。<勇気>とは、「恐ろしいものとそうでないものについての、正しい、法にかなった考えをあらゆる場合を通じて保持すること」であり、具体的には軍人などの防衛者のことである。<節制>とは、「さまざまの快楽や欲望を制御する」ことであり、庶民などの生産者をはじめ国の指導者たちも含む全体に行き渡るべきものである。<正義>とは、「他人のものでない自分自身のものを持つこと、行うこと」であり、つまりは「各人が一人で一つずつ自分の仕事を果し、それ以上の余計なことに手出しをしない」ということであり、このことが全体の均衡を守るという。この正義によって先の3つがうまく機能し、全体として調和するというのである。国内のさまざまな力をしっかり分けて管理するとともに、調和することによって理想の国家が実現されるのだ。
このプラトンの考えは「魂の三分説」とそこから導き出される「四元徳」にまとめられている。人間の魂は、<理性>、<気概>、<欲望>、の3つの部分からなり、それぞれの部分の徳として<知恵>、<勇気>、<節制>を考え、これらに秩序が生まれるとき、<正義>の徳が実現されるという。物事を分けると同時にその秩序の構築と調和を目指すことが述べられている。
例えば仕事において、その立場にない人が指揮をとったり、また反対に決断をするべき人がいつまでも優柔不断でいると、組織としての仕事は進まない。一時的にはうまくいったとしても責任の所在など後に残す問題が増えるのである。それぞれがその責務を果たし越権行為をしないことで、全体としては最大の成果を生むことになるのだ。これを国へと適応させると全体主義や独裁と言われ批判されるかもしれないが、事実、我々の生活の中で、たとえ仕事のような一部であったとしても、しっかりと機能している現実であると思う。義務を果たしたり行動を制限することは、一見窮屈であるように見えるが、結果的にはより大きな自由や幸せを得ることができるのではないだろうか。
日本の政治体制は民主主義である。選挙によって代表者が選ばれ、人民による人民のための自由な政治が行われている。プラトンはこの民主制のことを「多種多様な人間を生み出す、他の政治体制の中でいちばん美しい国制かもしれない」と評価している。国民には自由が与えられ、人々は寛大で、けっして些細なことにはこだわらない精神が宿っている。全ての人が自由を謳歌しているのだ。その反面、自由を与えないものは非難の対象となるがゆえに、政治家、教師、そして親は、その指導すべき相手、国民、生徒、子供に対して媚を売るようになり、最終的には秩序が破壊され法律さえもかえりみず、過度の自由に溺れ、もっとも野蛮な隷属状態となると警鐘を鳴らしている。少し大袈裟に感じるかもしれないが、LGBTQやBLMなどのデモ行進を見ていると、過度の自由が最も野蛮なものを生み出すのかもしれないと感じてしまう。皮肉にも自由が不自由を生み出しているように見えるのだ。
問題を解決するには小さく分けると良い。しかしその分ける力は諸刃の刃で、私たちの身をも切り裂く鋭い力だ。分ける力を生かしながら、分けたものをきちんと管理し、秩序を構築してその調和をはかることで、最大限の幸せが実現する。なんでも自由にしてしまうのではなく、ある意味縛って義務を課すことで、より大きな幸せ、本当の自由を生むことができるのだ。
その理想の指針となるものに『教育勅語』があると思う。明治23年に下され、戦後に廃止された。自由を謳うものではなく、義務に満ちていると思うかもしれない。しかし、その義務を遂行することによって全体としての美しい調和が実現されるのではないだろうか。最後にその一部を紹介する。
原文
爾臣民父母(なんじしんみんふぼ)に孝(かう)に、兄弟(けいてい)に友(いう)に、夫婦相和(ふうふあいわ)し、朋友相信(ほういうあいしん)じ、 恭倹己(きょうけんおのれ)を持(ぢ)し、博愛衆(はくあいしゅう)に及(およ)ぼし、学(がく)を修(おさ)め、業(げふ)を習(なら)ひ、以(もっ)て知能(ちのう)を啓発(けいはつ)し、徳器(とくき)を成就(じょうじゅ)し、進(すす)んで公益(こうえき)を広(ひろ)め、世務(せいむ)を開(ひら)き、常(つね)に国憲(こくけん)を重(おも)んじ、国法(こくほう)に遵(したが)ひ、一旦緩急(いったんくわんきふ)あれば義勇公(ぎゆうこう)に奉(ほう)じ、以(もっ)て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こわううん)を扶翼(ふよく)すべし。
現代語訳
国民の皆さん、あなたを生み育ててくださった両親に、「お父さんお母さん、ありがとう」と、感謝しましょう。兄弟のいる人は、「一緒にしっかりやろうよ」と、仲良く励ましあいましょう。縁あって結ばれた夫婦は、「二人で助けあっていこう」と、いつまでも協力しあいましょう。学校などで交わりをもつ友達とは、「お互い、わかってるよね」と、信じあえるようになりましょう。また、もし間違ったことを言ったり行った時は、すぐ「ごめんなさい、よく考えてみます」と自ら反省して、謙虚にやりなおしましょう。どんなことでも自分ひとりではできないのですから、いつも思いやりの心をもって「みんなにやさしくします」と、博愛の輪を広げましょう。誰でも自分の能力と人格を高めるために学業や鍛錬をするのですから、「進んで勉強し努力します」という意気込みで、知徳を磨きましょう。さらに、一人前の実力を養ったら、それを活かせる職業に就き、「喜んでお手伝いします」という気持ちで公=世のため人のため働きましょう。ふだんは国家の秩序を保つために必要な憲法や法律を尊重し、「約束は必ず守ります」と心に誓って、ルールに従いましょう。もし国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で「勇気を出してがんばります」と覚悟を決め、力を尽くしましょう。
令和5年11月7日
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