哲学としての日本語文法

 執筆中の哲学書の骨子は、全ては関わり合っているという関係性の存在論、そして「根」である。それらを追い求めている中で、日本の歴史、古語と目を向けてゆき、今回は日本語文法に出会った。文法とは語と語の関係であり、それぞれが意味を与え合っている。それはまさに構造主義的であり、また私の関係性の存在論である。そしてとりわけ日本語の文法ということになると、我々日本人の「根」との関わりをも表す。ニーチェ曰く、母国語の深い理解こそが本当の教養である。その言葉の通りであるなら、日本語の文法を明らかにしてゆくことは、私たち日本人の本当の教養としての世界説明、哲学となるのではないだろうか。

 日本語文法の長年の問題として3つの文章がある。「象は鼻が長い」、「僕はうなぎだ」、「こんにゃくは太らない」。これらは主語についての問題である。「象は鼻が長い」については、主語が「象」か「鼻」かのどちらかがわからない。「象」であろうか、いや、長いという述語があるので、「鼻」ではないか。では「象」はなんであろうか。次に「僕はうなぎだ」については、話者が「うなぎ」なのであろうか。もしくは料理屋で注文を聞かれた時に「僕はうなぎを注文する」という意味で言われた言葉であろうか。はたまた、何を釣って来たかと問われて「私が釣って来た魚はうなぎだ」の意味で言われた言葉であろうか。いずれにしても「僕」=「うなぎ」では片付けられない問題がある。最後の「こんにゃくは太らない」については、「こんにゃく」が太ったり、痩せたりするのだろうか。もしくは、ダイエットしている時に、「食べても太らない食べ物」としてこんにゃくをあげた時の言葉であろうか。主語、述語の関係としてこちらも何かを補わなければ、成り立たない。それぞれの文章は、長い間にわたって多くの人がさまざまな解釈をしてきた。そしてその決着は未だついていないという。その決着を私がつけることはできないが、ここではその中でも私が注目した三上章の説を、他の説と比較しながら紹介する。

 「象は鼻が長い」について、古くは大槻文彦の「二重主語」がある。大槻は、日本語の文は「主語」と「説明語」からなるとしている。「説明語」とは述語のことと考えてよいようだ。次の例文を見てみる。

  東京の都は面積広く人口多し

この文章を主語と説明語に分けると

  東京の都は 面積 広く  人口 多し

   主語   主語 説明語 主語 説明語

となる。この文章には主語が3つあるという解釈である。「東京の都は」「面積」「人口」。まず主語が2つ以上あるというのは不自然に思う。一体何が主役であるかがわからない。百歩譲って主語が2つ以上あることを認めたとしても、この場合「東京の都」と「面積」、「人口」を同等のものと見ることはできない。明らかに「東京の都」の方が重きを置かれる存在だと思う。だから「象は鼻が長い」においても、

  象は 鼻が 長い

  主語 主語 説明語

となり、主語が2つあるという解釈になる。「象は」と「鼻が」の違いがよくわからず、これではスッキリとしない。

 もう一つの解釈は、橋本進吉の「橋本文法」だ。現在学校で教えられている文法の土台となっているものである。

  象は 鼻が長い

  主語 述語

     主語 述語

こちらでは、「象は」が主語であり、「鼻が長い」が述語である。そしてその中で「鼻が」は主語で、「長い」が述語となる。「鼻が長い」という述語の中で、さらに主語と述語にわけて説明しているのだ。学校で教えられている文法だけあって、馴染みがある。がしかし「橋本文法」では「は」と「が」のどちらが「主語」であるかが問題となるが、どう説明を試みようとも明快には答えられないようだ。「象は」と「鼻が」の違いの説明がなく、いまいち全体の構成がはっきりしない。

 ここで三上章の説を見てみよう。三上は次のように説明している。

  象は 鼻が   長い

  主題 主格補語 述語

三上の説明では「象は」は主語ではなく「主題」なのである。主題とは、「今からそのことについて話しますよ」というような問題提起である。そして「鼻が」は「主格補語」といい、主語を表しながら動詞や形容詞の意味を説明する役割を果たしている言葉である。「長い」という形容詞の対象である「何が」を表している。この説明では橋本文法ではなかった「は」と「が」の違いが明確であり、役割に重複するところがなく、全体として非常に整然としている。

 三上の説の特徴は、この「は」と「が」の違いにあり、「は」が副助詞、「が」は格助詞とされ、明確に役割が違う。そして何よりも一般に「主語」と呼んでいるものを「主題」と呼び、日本語には主語がいらないと主張していることだ。

 次に「僕はうなぎだ」について見てみよう。奥津敬一郎は、最後の「だ」にいろんな意味が含まれていると説明している。これは述語代用説と言われており、さまざまな述語が「だ」によって代用されているとする説である。たとえば「何が食べたい?」と聞かれた時に「僕が食べたいのはうなぎだ」という答え「僕(が食べたいの)はうなぎだ」のカッコの部分が省略され、語尾の「だ」によって表現されているという。これはチョムスキーの生成文法の深層構造と表層構造の関係を下敷きにしていると思われる。人の深層では、「僕が食べたいのはうなぎだ」という文章があっても、表層構造、つまり表に出てくる表現としては「僕はうなぎだ」となるものである。

 これをもっと細分化したものに北原保雄の分裂文説というものがある。先ほどの深層構造から表層構造までの表現の変化を細かく説明している。

  • 僕はうなぎが食べたい
  • 僕の食べたいのはうなぎだ
  • 僕ののはうなぎだ
  • 僕のはうなぎだ
  • 僕はうなぎだ

これは「It is him who said this」といったような強調構文のことだそうで、日本語だと「~のは~だ」という文が分裂文といわれている。そしてその構文が徐々に省略されてゆき、最後には「僕はうなぎだ」になるというものである。

 この二つはおもてには出てこない世界を想定しての説明であり、プラトンのイデアやフロイトの無意識を思わせるものである。非常に興味深いが、説明としては不十分であり実感のないものだ。無意識の世界については、自分の本心に後から気づくような体験があるので納得はいくが、イデア、そして述語代用説、分裂文説は、説明のような文章の変化を自己の中に体験したことがなく、無理にこじつけているように思われる。

 三上の説明は、単純で明快である。先ほどと同じように「は」は主題を表すので、「僕については」うなぎだ、という意味になり、文脈に合わせて意味が通じることになる。「何を食べたいか?」と聞かれれば、「僕が食べたいのはうなぎだ」となるし、「何を釣ってきたか?」と聞かれれば「僕が釣ってきたのはうなぎだ」となる。実感のない世界を想定しての説明よりも納得がいくのは私だけではないはずである。

 最後に「こんにゃくは太らない」も見てみよう。これは誰の説明かはわからないが、「太らない」が「動詞」ではなく「形容詞」であると解釈する。「太らない夜食」という表現がその例である。そして主語「それが」が省略され、述語は「太らない」、「こんにゃくは」が主題となるそうだ。まず「太らない」というのが形容詞であるというのは納得できる。次に、この説では三上と同じように「こんにゃくは」が主題という分類になっているが、主語「それが」が省略されているという点において三上の主張とは異なっている。三上は日本語には主語はいらないとしているからだ。これについては後述する。この文において主語「それが」が省略されているとするのは、英文法の影響であろうか、形式上の主語のように捉えていると感じる。「こんにゃくについて話しますが、それが太らない夜食です。」というような隠れた本当の文があるというのだろうか。少し変に思う。

 こちらも三上の説明では簡単になる。「こんにゃくは」が主題で、「太らない」は補語である。何が太らないかは、文脈が教えてくれるだろう。とにかくこんにゃくについては、太らないという情報が与えられているのだ。

 私が三上の説に興味を惹かれたのは、英語の文法を絶対視せず、日本語そのままに解釈しようとしているところだ。英語には主語がなければいけない。それは主語が決定しなければ動詞の活用が決まらないからだ。しかし日本語では、主語によって動詞が活用することはない。それなのに主語が必ず必要であるという英語の決まりを無批判に日本語文法に取り入れるのは、極めて不自然である。

 三上は日本語の文章を3つに分類した。①名詞文②形容詞文③動詞文だ。①は「ライオンだ」のような名詞だけの文、②は「楽しかった」のような文、③は「走った」のような文で、これが基本の形となる。ここに「は」で主題を付け足したり、補語で説明を好きなように加えてゆく。たとえば、「あれが噂のライオンだ」「野球の試合は、楽しかった」「文太が、運動会で走った」など自由に情報を加えてゆくのだ。自由にといっても必須の補語、たとえば「飲んだ」は「何を」が必須補語であり、そのような補語が必要であるが、その他は自由である。このように日本語は述語だけで文章となる。必ず主語が必要なわけではないのだ。

 私はここで子供が言葉を話せるようになる過程を思った。最初は快不快を表す笑い声や泣き声に始まり、それから両親を呼び、電車を指差し、おもちゃを片付けられたら「できた」と手を叩く。そこには子供の目線で見た素直な世界がある。それからだんだんと複雑な関係や物事の順番などを説明できるようになる。それに伴って子供が見る世界は深みを増してゆくのである。

 文章がどのようにできているかを探ることは、我々がどのように世界を見ているかを探ることである。三上以外の研究者は、無条件に主語を受け入れていた。それは日本を下に見て西欧を上に見るという彼らの世界観だとも言えるであろう。その中で孤軍奮闘して日本の文法を構築した三上は、学会からは無視をされたようだ。

 頭の中にあるものをとにかく書き出すモーニングページに始まり、随筆としてまとめている中で、さらに哲学書を書いている。それは子供が言葉を覚えて、簡単な文書を作ることができるようになってゆくように、また、名詞文や形容詞文、動詞文が補語をえて、どんどんと複雑な情報を伝えるようになってゆくように、私の中に体系的な思想を構築している。文法は単語同士の関係を読み解いてゆく。それは世界の説明につながる。冒頭に構造主義的と形容したが、今はさらに進んで、ジャック・ラカンのように人間の成長過程をも取り入れた、時間的推移のある文法を考えてみると、より哲学的な広がりがあるのではと想像している。またとりわけ日本語の文法は私たち日本人の世界観、そして「根」について明らかにしてくれるのではないだろうか。

令和6年10月15日

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