冬至は一年で最も日照時間が短くなるときで、これを境に日照時間は長くなり始める。このことから、「一陽来復」と言い、良いことの始まりであるとされている。太陽が最も弱くなり、そこから再生するかのように力を増してゆくからであろう。二世紀、後漢末期の『独断』には、「冬至陽気起、君道長、故賀。夏至陰気起、君道衰、故不賀。」とあり、冬至は陽気が起きるので「賀」、夏至は陰気が起きるので「不賀」という認識であったようだ。この日には柚子湯に入って邪気を祓い、「ん」のつく食べ物である「かぼちゃ」(なんきん)を食べて運盛りをするのが慣わしとなっている。日照時間が最も短くなることをその周期の終わりと考え、いろはの最後の「ん」がつくものが選ばれたのだろう。その他には、れんこん、ぎんなん、にんじん、きんかん、かんてん、うどんなどがある。このように古くからの風習には、陰陽のような哲学的な考え、天文学、そして具体的な生活が一体となっている。形而上のものと形而下のものが分離せずに全体として存在しているのだ。
ニーチェは真の教養について「偉大な目標を目的とし、偉大な諸精神を意とした生活である」と述べており、現代の教養について「日常的な習熟によって植えつけられるべき身近な教養が欠けている」とも述べており、具体的な行動や日常性がないものを空虚な知であるとしている。頭で考えているだけでなく、日常生活の中での実践がなければ真の教養とは言えないということであろう。
哲学書を書こうと今年の4月に決心した。それからというものその関係の本を読んでいるわけだが、これで哲学書が書けるのだろうか、哲学書を書くことが目的であって手段にはなっていないこの状況は、空虚な知ではないだろうかと心配になることもある。本を読むことだけに捉われてしまい、それよりももっと豊かな現実を無視してはいないだろうか、書の完成が一体何になるのだろうか、そんなことが心配になったのである。しかしその辺りも含めて哲学してゆくことで、自ずと道は開けるだろうと楽観しているところもある。抽象と具体の問題、人生の目的など、書くことを通じて分かってゆくことも、自らの哲学に含めてしまえばいいのだ。
料理研究家の土井善晴が「食事的行動」という言葉を使っていた。
「私たちは日頃、ご飯を食べることを『食事する』と簡単に言いますが、そもそも『食べる』ことは『食事』という営みの中にあることで、単に食べることだけが『食事』ではありません。食べるとなれば、家族のだれかが買い物をして材料を用意する。野菜を洗って下ごしらえをする。ご飯を炊いて、菜を煮て汁を作り、魚を焼いて盛る。そして食卓にその皿を並べるのです。このように、ものを食べるとなると、必ず一定の行動がともないます。その食べるための行為のすべてを『食事』と言います。生きるためには身体を動かし、立ち上がり、手を働かせ、肉体を使って食べなければいけない。ゆえに、『生きることの原点となる食事的行動には、様々な知能や技術を養う学習機能が組み込まれている』のです。」
なるほど「食事する」といっても、それはただ食べ物を口の中に入れることではなく、それにまつわる準備も「食事する」ことに含めている。それらを「食事的行動」と呼び、ここに人の生活の根源的な文化があるとしている。
では「哲学的行動」とはなんであろうか。ソクラテスは書物を記さずに、日々市井の人々との対話を哲学的行動とした。ディオゲネスは「樽の中のディオゲネス」と言われたように、文明を放棄し、世捨て人となって教育や知識は無用のものとし、樽を住居として犬のような生活を哲学的行動とした。西田幾多郎なら高校教師としての仕事と散歩であろうか。よく「哲学という生き方」のような言葉で、その真髄を語るのを聞く。ここにはニーチェの「偉大な目標を目的とし、偉大な諸精神を意とした生活」という言葉のように、表面的な知ではなく生命として知へ向かう生活態度を言っているのだろう。
私の哲学的行動、哲学をすることの周囲にある行動について思いを巡らせてみた。まずはモーニングページが知の営みの源泉となっていると思う。モーニングページとは朝起きた時に頭の中にあるものを全て書き出すというものだ。文脈も考えずにただ書き出すので、ここには思想というようなものはまだない。しかし種のようなものはある。それを一つ一つ結びつけていくことによって、ある体系的な思想を作り出そうとしている。
そして起床してからモーニングページを書いた後は読書に充てている。朝は静かで文字通り生まれたての力がみなぎっているように感じる。集中しやすいのだ。これはただの勘違いかもしれないが、そのように思い大切にしている時間だ。この時間に今一番力を入れている「思索」に時間を費やすことで、私の人生でやり遂げたいことを優先しているつもりだ。朝は出社の準備など慌しかったが、早寝早起きをして時間を生み出している。夜には余分なことをしていたが、朝だと静かななかで集中することができるような気がして気に入っている。現在、夜は10時頃に寝て、朝は4時から5時の間に起きている。
そして読書やそれに刺激された思索をこの随筆に書きつけている。1ヶ月に1本だ。正確にいうと24日に1本で、このペースで行くと60歳ぐらいには300本の随筆が書ける。これは寺田寅彦が生涯に書いた随筆の数であったと思う。この数字に意味はないが、それぐらい書けば人並みの文章力や考えが身につくだろうという希望的観測だ。
以前からの課題でなんとかしたいと思っていたことがある。それは仲間や師匠が欲しいのだ。その人たちとの対話を通して思索を深めたいと思っていた。今はごく僅かの随筆の読者と、毎晩話を聞いてくれる彼女との対話があるが、読者はまず少ないし、連絡を取ることもない。彼女は哲学には興味がないので、話は聞いてもらっても本格的な対話とまではいかない。だから意見を交換する仲間やまた教えを乞う先生が欲しいと思っていた。仲間の方は神主の友達で、この人はと思う人と連絡を取ったが、そこまで盛り上がらなかった。今後に期待しているところである。
最近、師匠と呼ぶには畑違いだが、教えを乞いたい、また意見を頂戴したい先生が見つかった。経済学者の髙橋洋一氏である。元大蔵・財務官僚であり、第1次安倍晋三内閣においては経済政策のブレーンを務めた。いわゆる埋蔵金や不良債権問題、郵政民営化、ふるさと納税などに関わった人物である。髙橋氏は現在YouTuberとして人気を博しており、毎日更新される動画が興味深く、見ているうちにもっとこの方のことを知りたいと思ったのだ。元財務官僚でありながら財務省の批判をするなどの政治的な発言もさることながら、数学的な能力にも魅力を感じている。金融工学のクオンツという、高度な数学や統計学、物理学などの知識やスキルを駆使して、金融に関する予測や分析を行う専門家であったり、年金アクチュアリーという、こちらも確率や統計などの数理的手法を用いて、年金数理業務に携わる専門家でもあるのだ。それぞれについての知識はないが、国内には数百人ほどの特殊な専門家だそうだ。能力は高いだろうと思っている。
その髙橋氏がオンラインサロンをするというので申し込んだ。そこでは自由に質問ができる。他人の評価を気にしてしまうことがあるので、馬鹿にされたら嫌だなと思い質問をためらうことが多かったが、実際に質問をしてみると親切に答えてくださり得るものも多かった。これからはもっと質問したいと思っている。その答えに刺激を受けるとともに、対話したことでその問答が頭の中で続いてゆき思索となっていった。対話はソクラテスやプラトンがその哲学の方法としている、否、哲学という営みそのものが長く続く大きな対話と言ってもいいかもしれない。対話したい相手が見つかったことで私の哲学的行動は、以前より充実したのだ。
今度髙橋氏に質問してみたい事柄はもう決まっている。「事物を認識や分析するにおいて日本語、英語、数学の相違点や類似点は何か?」である。私は今、日本語文法に興味がある。英語と比べると日本語には主語がなく、述語以外の例えば主語的なものも含めて目的語などが、役割に強弱はあるものの並列していて、音楽で例えるとアンサンブルのようになっている。一方英語においては、主語と述語関係が明確である。なぜなら、主語に対応して述語が活用するからである。「I」に対しては、「am」、「speak」、「He」に対しては、「is」、「speaks」と言った具合だ。この関係はいわば主従関係のようで、同様に音楽で例えるとソロと伴奏のようになっている。このことが世界観の違いを生んでいるのではないかと思っている。これについては、言語学者の金谷武洋氏が詳しく、英語と日本語の違いを「神の視点」「虫の視点」、「する言語」「ある言語」という言葉で述べている。
髙橋氏は、数学的能力が高いので、マクロ経済を分析、予測する際に15、6本の連立方程式を同時に解いてゆくと述べている。ある一つの事実が一つの結果を生み出すのではなく、さまざまなことが関係しあっていて、その相互関係を考慮に入れながら全体としての結果をその時々で予測するという。例えば、定数的に米国の利率が何ポイント上がれば、日本の株価がいくら上がるかというようなことは言えない。その他のことも考慮に入れつつ計算してゆくのだそうだ。私には想像できないことだが、これは並列するアンサンブルであって、主従関係のソロと伴奏の関係ではない。そこで、「日本語、英語、数学の違いを感じるかどうか?」を聞いてみたいと思ったのである。
私も含めて周りには、「日本語、英語、数学」を操る人がいないので、ぜひ聞いてみたい。髙橋氏は留学の経験があるので英語は堪能なようだ。私の周りには日本語と英語を話せる人も少ないが、連立方程式を同時に15、6本解くような数学的能力を持っている人となれば皆無である。こんな質問ができる人は髙橋氏をおいて他にはいないのである。ぜひこれが有意義な対話となってゆくことを願っている。
正月を前にして慌ただしく走り回っている神主の私が、哲学書を書こうと早寝早起きをして頑張っている。モーニングページで思索の種を集め、読書で養分を吸収し、対話によって大きく育ててゆく。こんな「哲学的行動」が稔りをもたらすのはいつの頃だろうか。最近は勉強の進歩を感じることができていないので、少し焦っている。冬至が過ぎて陰から陽の方へ動き始めた季節のように、春に向かって少しのあいだ冬を耐え忍ばねばならぬのかもしれない。
令和6年12月26日