教義・経典がない
神道は自然に発生して、日常生活に密着する形で信仰が継承されてきたことから、
成文化された経典や戒律はありません。
長い年月をかけて培われてきた道徳的・倫理的基準が
神道の生活律であると言えます。
19世紀のイギリスの日本の研究者であった
バジル・ホール・チェンバレンや、ウィリアム・ジョージ・アストンらは、
教義や経典がないこと、戒律などがないことをあげて、
神道を「空虚で未発達な宗教である」と述べました。
これに対し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、
「神道の源泉を書物ばかりに求めていてもだめだ、
現実の神道は、書物の中にいきているのではない。
あくまで国民の生活の中、心の裡に息づいているのだ。」
と反論し、神道の素晴らしさを訴えました。
教えられるものよりも感じるもの
「神道は教えられるものよりも感じるもの」と言われる通り、
文章にはなっていなくとも、
風習、行為として、人々の心に染み入るものです。
19世紀には現在よりもキリスト教的文明の優位性が強調されていたため、
キリスト教のように理論的に神、人間、世界を説明しない宗教は、
「格下の物である」という単純な考え方が主流でありました。
原罪はない
神道では、人の生命は神々から授かった清らかな物と考え、
キリスト教に見られる原罪という観念はありません。
罪 穢
しかし、人は日常生活の中で悪い心に惑わされたり、
他人の心を傷つけたりすることがあります。
このような過ちを「罪(つみ)・穢(けがれ)」と捉えました。
罪
罪には、天つ罪(あまつつみ)と国つ罪(くにつつみ)があります。
天つ罪は、天上界の罪とされ、具体的には、
・農耕妨害
・家畜に対する残虐行為
であり、共同体社会が形成される前の犯罪と考えられます。
国つ罪は、地上の罪とされ、具体的には、
・人道上の罪
・病気
・災害
であり、犯罪とともに、災害も含まれることが特徴です。
これは、犯罪が災害の原因になると考えられていたためだと思われます。
穢
穢は、不浄、正常でなく神の好みたまわざるもの、とされ、
・死
・病
・産
・月経
・失火
・灸治
・ニラ
・葱
・五辛
など、主観的な感覚も見られます。
祓 禊
罪や穢は、祓(はらえ)や禊(みそぎ)をして、
常に清浄で正直な人間であることに努めます。
祓
神職による祓詞(はらえことば)の奏上ののちに、
大麻(おおぬさ)という祓の道具で、精神的に清めることを言います。
また、犯した罪に対して、その代償物を出して、罪をあがなうことも言います。
これを祓物(はらえつもの)と言います。
禊
俗に寒中に「滝に打たれる」ようなことを想像しますが、
これは修験道などの影響であり、
神道本来では「湯または水をあびて身を清めること」です。
浄明正直
浄明正直(じょうみょうせいちょく)は、
「浄く明るく正しく直く」という理想的な心のあり方を表した言葉です。
神道では、罪や穢を禊祓いで清めて、浄く明るく正しく直きこころをもって、
それぞれの立場で与えられた使命を全うし、
世のため人のために尽くしながら
一生懸命に生きて行くことが第一義と考えられています。
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