柄谷行人の「交換モデルX」における宗教と科学についての随想

 台湾行政院デジタル担当政務委員のオードリー・タン氏の著書に気になる言葉があった。「交換モデルX」。どんなものかは全く想像がつかなかったが、興味が惹かれた。というのもオードリー・タン氏の著書は刺激的で示唆に富んだ内容であったからだ。

 台湾に於けるコロナウイルスの対応は、世界でも評価されている。その一役をデジタルの技術を以って担ったのがタン氏である。デジタルという最新鋭の技術を持ちながら、心温かく、高齢者のようなデジタル機器に馴染みのない人たちも漏らすことなく、その恩恵を広く社会に広めている。

 例えばマスクを台湾全域に届ける政策において、スマートフォンなどのデジタル機器に慣れ親しんでいる若者には、デジタル機器を利用して配布や購入の管理をした。一方機器に馴染みのない高齢者層へは、健康保険証などのいわゆるアナログのものを利用して柔軟に対応していた。

 またマスクマップの作成にも貢献した。マスクマップは、台湾のどこにどれだけマスクがあるのかということが、スマートフォンのアプリで確認できるものだ。これを使えば、マスクを必要な人が右往左往することなく、マスクを入手することができる。これは行政と民間が協力して作られた。氏がマスクマップを作ることを提案し、行政がマスクの流通・在庫のデータを一般公開する。するとシビックハッカーたちが協力して、どこの店舗にどれだけのマスクの在庫があるかが、リアルタイムでわかる地図アプリを次々に開発した。

 そんな氏が影響を受けた言葉として「交換モデルX」が紹介されていた。氏は「交換モデルX」をデジタルの力で実現できないだろうかと考えているという。

 では、「交換モデルX」とは一体何であろうか。

 この言葉を作ったのは日本の哲学者であり文芸評論家でもある柄谷行人(からたにこうじん)氏である。タン氏はこの言葉を説明している。引用すると、

家庭のような無償の関係の交換モデルA、

上司と部下のような上下関係のB、

政府内部あるいは不特定多数の人たちが対価で交換する市場のような関係のC、

これらの3種類に属さない4つ目の交換モデルを指しています。

これは開放的な方法で、不特定多数の人々を対象としつつ、「家族のように何か手伝いを必要とすれば、見返りを求めずに助ける」という交換モデルです。

 

 また、交換を2つの方向性から分類して、整理している。1つは、知り合いと交換するか、見知らぬ人と交換するか。もう一つは、見返りの関係になるか、ならないか。以上をまとめると次のようになる。

A 知り合いと見返りの関係にならずに交換するパターン

B 知り合いと見返りの関係になって交換するパターン

C 見知らぬ人と見返りの関係になって交換するパターン

D 見知らぬ人と見返りの関係にならずに交換するパターン

 A、B、Cはそれぞれ先に引用したものと対応する。Aは家族のような関係。Bは上司と部下の関係。Cは市場の関係。そして最後のDが「交換モデルX」である。これはまだモデルがないので「X」という記号になっている。

 そして、この「交換モデルX」には課題があるとしている。それは「基本的なシステムについてどのように信頼を得ていくか」ということだそうだ。交換をする中で、「まず相互の信頼を得てからシェアをする」というのが一般だ。これはつまり家族のようになる交換モデルAである。しかし交換モデルXの概念は「みんなとシェアする過程で、あらゆる人とお互いに信頼関係を築いていく」というものだそうだ。順番が逆なのである。交換する過程の中での相互信頼の構築。これが課題なのだそうだ。

 これについて私なりに思うところがあった。まず、「見知らぬ人と見返りの関係にならず」ということは、信頼は関係ないのではないかと思う。信頼とは「信じて、たよりとすること。信用して、まかせること。」とある。「見知らぬ人」を頼りとすることは、もしかしたら頼りとならないかもしれないという可能性を含むのではないだろうか。そして見知らぬ人と信頼関係になることは、知り合いになることではないだろうか。また見返りの関係にならないのなら、相手がすることにこちらが左右されないということを意味するのではないだろうか。その意味であるなら、相互信頼を構築することを期待すること自体、見返りになるのではないだろうか。どんな人とでも、少しの利益さえなくとも交換するのが、「交換モデルX」なのではないだろうか。よって「交換モデルX」においては、信頼という概念を持ち出さないか、もしくは最初から全幅の信頼を寄せ、何も求めないということではないのだろうか。

 また、このようなモデルとして、インターネットの世界が思い浮かぶ。情報が不特定多数の人に共有されて、金銭の授受もない。それが相互に行われる。しかし、このような新しい世界にうっとりとする気持ちはわかるが、よく考えると街中に看板を建てるのとさほど変わりはないように思う。それを見て情報を共有し、通りすぎてゆく。そして違うところで自分も看板を建てる。原理としてはこれと大差はない。つまりは全く新しい交換様式が行われているわけではないのだ。そこに新しさがあるといえば、速さと広さだ。情報の伝わる速さとその広がる範囲が桁外れに違う。このことであろう。見ず知らずの看板を見て、情報得て、コミニケーションを取るうちに仲良くなる。これはインターネットの世界でも同じだろう。最初は見ず知らずのもの同士が徐々に信頼を深めていく。この仕方には個々の事例があって、システムとして課題にすることなのだろうかと思う。国境のない世界が気に入ってるのではないだろうか。

 しかし、無限に広がる自由で平等な社会というイメージはなんとなく伝わってくる。人間が疑ったり、騙したりせずに、崇高で義務をきちんと果たして、よどみや曇りのない社会が想像出来る。一般的にはそのような理想的な世界は、宗教上のものであることが多い。しかし彼らは宗教や信仰ではなく、純粋な交換のモデル、典型例を模索しているようだ。

 半ば宗教的な理想世界の実現の可能性を、宗教とは対極に位置すると思われる科学が持っている。ここで疑問が起こる。本当に宗教と科学は対極なのだろうか。意外に感じるが、実は歴史を振り返ると、最先端の技術と宗教は密接な関係にあった。日本における祭祀に置いて、青銅製の剣や銅鐸などがあるが、これらは当時の最先端の技術であり、そのことによって権威を高めていたと思われる。また鏡などの製作には高い技術が必要だが、その習得に対する厳しい訓練も神々に捧げるような意味もあったと思われる。高い技術と深い知性を必要とする科学は、人々を危機から救い、それまでに体験し得なかった事柄を多くの人々に提供する。この力は時として特権的であり、また神秘的でもある。そういった側面が、宗教と親和性があると思う。

 そもそもこの「交換モデルX」は、柄谷行人氏が現代を資本=ネーション=ステートという3つの相関関係で捉えるとき、従来の生産様式で捉えていたのでは説明できないことから、新たな切り口として、交換様式で現代、さらに世界史の全てに至るまでを再構築する試みである。

 宗教は神話という物語でこの世界を捉え、人々がどう生きていくべきかを説いた。科学は合理的に実証的に物事を分解し再構築する。「宗教的ではなく科学的に」というとき、それは真実だという意味を持たせるが、わたしの考えでは、科学的であることは、宗教と関わりがあると思う。そこには世界の謎、神の存在を、究極の存在を追い求める気持ちと関わりがあるのではないだろうか。その意味で、科学の登場前は宗教が最先端であり、現在の科学の役割を担っていた。そして、科学は次の宗教として、人間が究極の存在へと近づく手段なのではないだろうか。

 最近では瞑想や祈りという宗教的な行為も科学の対象となっているようである。科学と宗教が近づいている。科学は宗教の一部分であり、宗教は科学によってさらに威厳を放つ。そんな相関関係にあると感じている。「開放的な方法で、不特定多数の人々を対象としつつ、家族のように何か手伝いを必要とすれば、見返りを求めずに助けるという交換モデル」であるという「交換モデルX」。宗教的であっても、純粋な交換モデルであっても、どちらでもいいので、その実現に貢献したいと思う。

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