知的行為としての「祀る」

 日本神話を読むと「神様を祀る神様」がいることに驚く。一般に神様は「祀られる者」であって、「祀る者」ではない。しかし、神話の中には神を祀るために勤しむ神々が描かれている。その筆頭が天照大神である。伊勢の神宮に祀られた皇祖神、簡単に言えば日本で一番偉い神様は、神様に供えるための織物を織ったりしている。一体どんな神様をお祀りしているかは記述がなくわからない。本居宣長は「天つ神」としているが、和辻哲郎は「不定の神」とし、その背後に究極的な神がいなければならないが、それはどんな存在かわからないとしている。

 和辻氏は『日本倫理思想史 上巻』の中で、①祀る神②祀ると共に祀られる神③単に祀られる神④祀りを要求する祟りの神、というような神様の区別を紹介している。

 ①「祀る神」②「祀ると共に祀られる神」は、段階的に説明され、まず「祀る神」であった神が、その神聖さにおいて自らも祀られることになり、「祀ると共に祀られる神」となるのである。記紀神話に登場する神々のほとんどがこの「祀ると共に祀られる神」である。最も上位であると考えられる天つ神も、「フトマニ」という占いをして、さらに上位の神の意志を伺っている。前述の天照大神やイザナギ・イザナミも何らかの形で上位の神を祀り、その意思を伺っている。そして自らもその事績によって祀られることになるのである。③「単に祀られる神」は、ヤマツミ、ワタツミ、クニタマ、ミトシ、などの名前のみで、その働きを示さない神々である。ワタツミは、記紀神話の中で、阿雲の連らによって祀られていると書かれているが、どんな活動をするかなどは書かれていない。宗像の三女神もまた同じことである。④「祀りを要求する祟りの神」は、大物主神がその代表であり、他の神々も祀ることを要求するが、要求することのみが他の神々の特徴ではない。しかし大物主神は、祭祀の要求以外は何もしないという神である。

 これと同じような分類を佐藤正英が著書『日本倫理思想史』で行なっている。佐藤氏の分類は「もの神」と「たま神」である。

 「もの神」とは、あまり簡単に言いすぎると齟齬が生じそうだが、「自然そのもの」であると言っていいだろう。そして「たま神」とは、「もの神を祀る人」である。

 佐藤氏によれば「もの神」とは「むき出しの他物」であり、「定まった形姿がない」。「その形姿は世俗世界のあれこれの事物や事象の形姿と近似しているが、どの形姿とも同一ではなく、どの形姿からも逸脱している」という。つまり、どのような形姿かは定まっていないが、神としての「畏き威力」を持った存在である。大物主神がその例として挙げられていることからも、自然の威力や、自然そのものを指すと考えてもいいと思う。さらに「もの神」は「なぞり返し」という反復を拒否すると述べているが、これも一回性をもつ自然の性質と考えてもいいだろう。したがって、「無秩序な自然そのもの」が「もの神」である。

 そして「たま神」は「もの神を祀る人、またはその人の霊魂」と述べている。ここで興味深いのは、「たま神」は「人」であるということだ。神は人ではなく文字通り神であって、もし人であったなら『古事記』のような神話は一体何なのだと思ってしまうのだが、佐藤氏は『古事記』を「祭祀を行う『人』の物語」として読んでいる。そして神を祀る人は、自らが祀る神の名前を負うのだという。その例として『古事記』からアメノウズメがサルタビコを祀ったのちに、サルメの君と名乗ったことが挙げられている。『古事記』を読んでいるとその荒唐無稽さに、古い時代のものであるから仕方ないなーというような諦めの感情を抱くことがあるが、これを「祭祀を行う人の物語」と読むことによって、それぞれの出来事の意味は変わってくるのである。

 例えば、イザナギ・イザナミはたくさんの島を生むが、それは大きな島を「物理的に産み落とす」というようなファンタジーではなく、島を「統治する」や「整序する」というような意味となる。つまり島の名前は、「もの神」すなわち「自然そのもの」の名前であり、また同時にその「もの神」を祀る人の名前でもある。島である「もの神」を祀ることで、その島を統治するのだ。「島を生む」ということは、その「島を整序する」ということなのである。

 そしてもう一つ「もの神を祀る人の霊魂」としての例を挙げる。「アマテラス大神」は、「アマテラスという人」が祀っている「もの神」である。「アマテラスという人」は、自身が祀っている「もの神」である「アマテラス大神」の名を、自身の名として名乗っているのである。その「アマテラスという人」は、スサノヲとのやり取りの末に死んでしまうのだ。これが天岩屋の神話の場面である。スサノヲの悪事に嫌気がさした「アマテラスという人」は、洞窟に隠れてしまい、世界は真っ暗闇になってしまう。佐藤氏は、このことを「アマテラスという人」の死と解するのだ。いささか無理があるように感じるがこの続きが素晴らしい。隠れてしまった(死んでしまった)「アマテラスという人」の再生を希求して、高天原の人々は祭祀を執り行う。この時の祭祀の対象は「アマテラスという人の霊魂」である。なぜなら「アマテラスという人」は死んでしまったからだ。この霊魂の再生を希求して行われた祭祀が成功した時、「たま神」としての「アマテラス大神」が再生、否、誕生したのである。生身の「アマテラスという人」とは違い、「たま神」に変貌した「アマテラス大神」は死滅することがない。なぜならそれは霊魂であるからだ。この天岩屋での祭祀が落ち度なく実習される限り、「たま神」としての「アマテラス大神」は尽きることなく存在することになる。そして、この再生によって高天原は、「たま神」としての「アマテラス大神」が尽きることなく存在することによって、「もの神」の祭祀が実習される観念世界に変容した。つまり、より十全な「もの神」の祭祀が実習される観念世界として、生成死滅をまぬがれない世俗世界である葦原の中国、すなわち「この世の世界」から隔絶した「あの世の世界」となったのである。

 なかなか複雑な構造に感じるが、とても現実的で理に適った世界観だと思う。『古事記』の読みについては、「支配者側の都合によって捻じ曲げられた歴史のおとぎばなし」というような解釈が多いように感じるが、「祀る人」という現実的で、天皇がまさしく「祀る人」である事実から考えれば、日本という国の中心的な性格を据えての解釈に、整然とした印象を持つ。「もの神」を祀る人の霊魂、「たま神」を祀ることによって、砕けた言い方をすると、「たま神」と「もの神」の両方のご利益を得ることができるようになったということである。この天岩屋の祭祀は、今までの祭祀とは違った段階の新しい祭祀であったのである。

 「祀られる神」「祀る神」「もの神」「たま神」、これらの分類は、指し示す範囲が重複している。「祀られる神」は「もの神」であり、「祀る神」は「たま神」である。しかし、「たま神」は、「祀る神」であると同時に「祀られる神」でもあるのだ。この両面性が祭祀の世界に新しい奥行きをもたらしている。「たま神」を祀ることで、「たま神」が祀っている「もの神」まで祀ることになる。そして、「たま神」は霊魂であるから、未来永劫尽きることはないのである。この意味でまさに天壌無窮なのだ。

 ここから一つの推測をしてみた。古代において「祀る」とは、現在の「学問」のようなものであったのではないだろうか。祭祀者はその道の「専門家」というような存在だったのではないだろうか。例えば会計に詳しくないものにとっては、目の前にある現金や領収書、請求書、債券、税金の通知などは混沌そのものかもしれない。それを専門家に仕分け、整序してもらうことによって現金や債券は意味を持ち、しっかりと管理され、資産となって、我々の力となる。そのように自然そのものという混沌を整序し、その力を引き出すことがでる専門家、つまり優れた祭祀者は、その道のプロフェッショナルだったのではないだろうか。そのように考えた時、次の二元構造の中に「もの神」「たま神」も分類できるのではないかと考えた。なぜなら混沌と秩序の世界を分けるからだ。

 その二元構造とは、私が哲学を理解するときに使っている混沌と秩序の簡単な分類だ。親しみやすく「ぐっちゃん子」と「きっちん子」と呼んでいる。親しみやすさが過ぎるかもしれないが、結構気に入っているのだ。想像通り「ぐっちゃん子」とは、自然そのものであるような混沌の世界を表し、「きっちん子」とは、分節され整理された秩序の世界を表す。(ちなみに「ぐっちゃん子」は、YouTubeの「何か分かりづらいチャンネル」さんの表現を借りており、「きっちん子」は「ぐっちゃん子」に似せた異性である。)例えば、カントの「物自体」や、バタイユの「連続」は「ぐっちゃん子」で、ニーチェの「アポロン的」やショーペンハウアーの「表象」は「きっちん子」である。もちろん簡易の分類分けであるから、それぞれ分けられたもの同士が完全に一致はしていない。だが大きく分けるとどちらと似ているかということが、類型的に理解できるので重宝している。そして、類型同士の違いが、それらの特性となるのでわかりやすい。参考までに二元構造の表を示しておく。テーブル

自動的に生成された説明

二元構造   
人物ぐっちゃん子きっちん子用語
 混沌  
 未発已発 
和辻哲郎祀られる神祀る神 
佐藤正英もの神たま神整序
菅野覚明アメノミナカヌシクニトコタチノミコト 
菅野覚明 伊勢神道豊受大神天照大神 
菅野覚明天皇 
  
 若者年寄り 
 祭り日常 
カント物自体現象界 
井筒俊彦無分節分節Ⅰ、Ⅱ分節
ニーチェディオニュソスアポロン 
ジョルジュ・バタイユ連続非連続エロス
フロイト無意識意識 
井筒俊彦アラヤ識の意味可能体言葉薫習
ショーペンハウアー意志表象 
竹田青嗣なし、原存在信憑確信 
 モーニングページ随筆 

 この二元構造に照らし合わせると「もの神」は「ぐっちゃん子」であり、「たま神」は「きっちん子」である。「もの神」は「むき出しの他物」であり、「定まった形姿」がなく、「その形姿は世俗世界のあれこれの事物や事象の形姿と近似しているが、どの形姿とも同一ではなく、どの形姿からも逸脱している」というその特性は、「ぐっちゃん子」の名にふさわしい。「たま神」は「もの神を祀る人」なので、「もの神」という「ぐっちゃん子」を整えたという意味で「きっちん子」である。しかしその「たま神」は「人々」によって祀られるので、この場合「人々」の方がより「きっちん子」になる。よって、「たま神」は、「もの神」と「人々」との間、「ぐっちゃん子」と「きっちん子」の媒体のような存在であると言えるだろう。(この二元構造は便利だが、その分類名を使うたびに真剣味が削がれていくのが難点である)

 私はこのように文章を書くことが好きであるが、そのきっかけはモーニングページという習慣である。これは朝起きて頭の中にあるものをただただ書き出すというもので、書くことがない時は「書くことがない」と書き出すほどに、愚直に「頭の中にあるもの」を書き出す。この習慣を先ほどの二元構造に照らし合わすと、「頭の中にあるも」のは「ぐっちゃん子」で、まだ「定まった形姿」のない無秩序な「むき出しの他物」であろう。そしてそれらを書き出す、すなわち「言葉」にすることは「きっちん子」であり、整序された秩序のある状態だ。これらをさらに分類分けして筋道をつければ、この随筆やまた論文へと発展してゆく可能性がある。

ぐっちゃん子 きっちん子
もの神たま神人々
モーニングページ言葉随筆、論文

 国の政治は「まつりごと」ともいうが、古代において神を祀ることは国を治めることであった。「もの神」を祀り、またさらには「たま神」を祀ることによって、未来永劫の発展を約束する国家としたのである。このように「ぐっちゃん子」から始めて「きっちん子」に至る道筋は、「頭の中にあるもの」を書き出すというモーニングページから始まるのではないだろうか。私は、「頭の中の混沌」を「言葉」として書き出すことにより「祀っている」。そしてその「言葉」を整序して、つまり「祀って」、文化に、学問にしようとしている。これは、日本が自然、すなわち「もの神」を祀り、さらに「たま神」を祀って国家となったことの縮図ではないだろうか。また「祀る」という行為は宗教的な意味だけではなく、文化の根源的な知的行為として捉え直すことができるのではないだろうか。ふでのまにまに「ぐっちゃん子」を「きっちん子」している。

令和6年3月11日

 

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