本棚を眺める

 DIYで本棚を作った。思い切って壁一面を本棚にしたのだ。理由は本が増えてきたので、置き場所がなくなったことだが、といっても400冊ほどだから世の読書家と比べたら大した量の本ではない。しかし、国語が苦手だった私にしたらたくさんの本を買ったと驚いている。並んだ本を眺めて見ているといろんなことを思った。「あの本は読んでいないな、これはもう一回読みたい、この本とこの本の間にはあの本を並べるべきだな。」本は読むだけでなく、並べても楽しいことに改めて気づく。

 永田希著『積読こそが完全な読書術である』には、本は単純に読むことだけでなく、積んでおくだけでも意味があると述べられていた。世の中にたくさんある本の中から1冊の本を選び、自分の本棚に並べる。それは他律的に積んであった本を自律的に積むこと、つまりは自分だけの知的世界を作ることであるという。永田氏は「ビオトープ」という言葉を使って、その自分だけの知的世界が変化成長することも述べていた。「ビオトープ」とは「ある場所の小さな生態系」という意味で、生態系のように常に躍動し変化していく様を、自分の本棚、積読環境にも当てはめていた。そこにある本どうしの関係が少しずつ変わり新たな洞察を得ることも、本が私たちに与えてくれる恩恵の一つであるそうだ。つまりは「本は読まなくてもいい」と言ったら言い過ぎだが、読む以外にも本はたくさんのことを与えてくれるそうだ。

 この本に影響されてどんどんと読めないものも買ってしまったことがその数を増やし、今回の本棚作りの直接のきっかけになったといってもいい。読まない本を買うのだから意味がないといってもいいだろう。しかし永田氏がいうように、本は読むだけでなく、並んだ本を見ているだけでも飽きないし、年代順に並べると歴史の勉強にもなるような気がする。このように本にはたくさんの楽しみ方があることに気づいたので、本との関わりを動詞ごとに分けてみたのだ。

 まずは「①知る」。その本の存在を認識することだ。最近は哲学関係が多いので、哲学史の本やYouTube、関連図書からその存在を知るのだ。その存在を知っても自分とは関係がないと通り過ぎたり、一方で「すぐに買わなきゃ」ってなったりと反応はさまざまである。さらには本どうしの関係を知ることも内容に勝るとも劣らず興味深い。似ている、反対の内容である、互いに批判している、など繋がりを知ることで大きくそれぞれの本の印象は違ってくる。私の本棚には訳もわからずに買った『ヘルダーリン詩集』がある。長く読まずに積んであっただけであったが、最近ヘーゲルを読んだ時に、ヘルダーリンとヘーゲルの仲が良かったことを知り、久しぶりに『ヘルダーリン詩集』を手に取るきっかけとなったのだった。本との関わりは、その本の存在を知ることから始まるのだ。

 次は「②選ぶ」。その存在を知った本の中で欲しいものは、Amazonの「欲しいものリスト」に入れたり、ノートに書いたり、タスク管理のアプリに入れたり、一旦リストアップすることが多い。または本屋に行って、棚を往復しながらタイトルを何度も読み、時には手に取ってページをめくったりしながら選ぶ。この「選ぶ」という行為は、本についてよく考えることでもある。リストを眺めながら、また手にとって少し読みながら、さまざまな想像をするのだ。「この本は私にとって必要だろうか、読んだら何を得ることができるのだろうか、哲学史的には重要そうだな、家にある本と似ているかもしれないな。」私は哲学の初心者だから読むべき本をほとんど読んでいない。だから買っておくべきもの、手元においておくべきだと思う本はたくさんある。それらを、知識をかき集めながら選んでいくのだ。また「こんな本を読んだらかっこいいな、頭が良くなるだろうか、表紙が綺麗だ。」こんなふうに、本という知識がたくさん詰め込まれたものを選ぶことと関係のないような種類の考えも頭の中にはよぎる。「選ぶ」という行為は、本以外のものが対象であっても、私の全体をかけて行なっているような気がする。だから結構疲れる時もあるのだ。たくさんある中から今1冊の本を選ぶ行為は、大袈裟に言えば私の人生をかけた大きな一歩であるから、快感でもありまたストレスでもある。絞り込む時は大変だ。例えば、古本屋に行った時だ。内容に惹かれることもあれば、その珍しさにこだわってしまうこともある。また値段の安さや、古さゆえの愛着が湧くこともあって、自分の中のさまざまな価値観が目まぐるしく飛び回ってくる。目の前の本を通して自分の中の価値観のような心的なものを選んでいるような気がする。「本は心が物質化したもの」というとひどくキザな気もするが、選ぶという行為はその人の心を外に表す行為である。「いつかは読む本だろう、目次に今興味のある言葉が書いてあった。」そんなことをぶつぶつ言いながら結局は絞り込めずに、目についたものは全て選んでしまう。それが最近の私の心だ。

 次は「③買う」。先ほどの「選ぶ」とよく似ているが、少し違う。「選ぶ」ことは苦しいこともあるが、「買う」ことは快感のみだ。ストレス発散。どこか排泄行為と似ているような気がする。本が増えるのだから「排泄」は反対の表現であるように思うが、すっきりするのだ。自分の中に溜まっていたものが出ていってしまったような、開放感や清々しさがある。本は手元に入ってくるが、代わりに何かが私の中から抜け出て、心を綺麗にしていく。だから本を買うことで読まずとも満足してしまうこともある。読書好きからは笑われるだろうが、そんな傾向を私は持っている。「最近は本を買いすぎだな」って思っている時は、ひとまず「欲しいものリスト」に入れてみる。そうしたら満足することもある。リストに入れることは、本を買ったような気になって、すっきりさせるのだ。「買う」ことは、本を自分のものにするとか、読んで知識を得ることとは違う何かであると思う。そしてそれは「読む」と同じぐらい、いや時には「読む」こと以上に私を満足させる。本を買うことの魅力は、想像以上である。かえって読んでわからないときはページを開かずに買ったまま積読しておけばよかったと思う事もあるのだ。

 次はいよいよ「④読む」である。本との正しい付き合い方だ。本は読まなくてはならない。そこには著者の、または先人たちの思いや知恵がたくさん詰まっている。息遣いも秘めていて、それは文字通り生きることへとつながる、大袈裟に言うとそんなふうなすごいことが本には書かれている。しかし、どの本も簡単に読めるわけではない。わざと読めないように書いているのではないかと思うくらいに文章が複雑なものもある。その難解さと格闘することは辛いことであり、仕事で疲れて帰ってきたのに、やってられないと思うこともある。特に哲学書は難解な語句や言い回しが多いので読むのをやめてしまうこともあるのだ。以前はそこで本当にやめて寝てしまうことが多かったが、竹田青嗣さんという哲学者のインタビューに、「本を読むときはレジュメを作りながら読むといい、いや作らなければならない」とあった。それは内容をしっかりつかむためだが、この基本的な行為の勧めが新鮮であったので、実際にレジュメを作りながら読んでみた。そうするとわからないから途中でやめるということがなくなった。レジュメには要点とともに、わからないところや自分の推測や意見も書く。このことが受け身の姿勢から直接的に本の内容と関わるという積極的な姿勢へと私を変えたのが原因であると思う。読むスピードは著しく遅くなったが、本の理解は遅くなった以上に上がっている。だから「読む」とは、活字を目で追うだけでなく、抜き出したり、自分の言葉に変えたり、本をきっかけに思考することで、より楽しいものとなるのだ。

 次は「⑤使う」。読むことも使うことの一つかもしれないが、こちらは例えば引用したりすることを言うだろうか。人に話すときに引用する、また思考の始まりとして何かの本の一節をテーゼとして始めることもある。著者の意図とはかけ離れることもあると思うが、本にはこんな使用方法もある。私はもっぱら引用だ。神社で参拝者に講話するときや、この随筆を書く時には引用を多用することがある。本のアイデアを借りて論を展開したり、説得力を強めたりするときに使う。また、たまにではあるが、文学作品の一節からフリーライティングを始めて、オリジナルの変な物語を作って楽しむこともある。ただの遊びだが、この遊びがアイデアを生むこともあるのだ。また重要だと思う哲学書の一節をツェッテルカステンに書き留めておいて、並べて遊んで、つなげることもする。ツェッテルカステンとは、一つの思考やアイデアを書き留めたカードを箱に入れて、これをノートとして使ったり、また思考のツールとして使ったりするものである。ツェッテルカステンや、さらに先ほどのレジュメも参照すれば、本を使って新しい思想を作り上げることもできるだろう。

 次は「⑥並べる」だ。今回、本棚を作ったので最近はよくやっている。本を並べて遊ぶ。内容が似ているもの、反対のもの、同じ作者、年代順。さまざまに並べることによって気づきがある。例えば合理主義の本が少ないとか、ある著者の本はたくさん持っているけど全然読んでいないとか、また、本どうしの繋がりに気がついたりとか、遊びの中に発見があるので楽しい。先ほどのツェッテルカステンと同じだと思う。本一冊がカードになって、それぞれが繋がり、また違った内容を私に与えてくれるのだ。さらには自分の好きなジャンルやまた知らないことがまだまだあることも痛感させてくれる。本は並べても非常に楽しいのだ。

 次は「⑦売る(手放す)」。欲しいと思って買ったけど全然面白くなかったものや、興味がなくなったものを売るのだ。小遣いになって嬉しいが、失敗したことがたくさんある。売るときは興味がなくなっていたが、後になって興味が湧いてきて、もう一度買い直すことが何度もあった。だから最近は極力売らないようにしている。特に古典と言われる名著は、必ずといっていいほど後から興味が湧く。だから置いておくのだ。また買ってもいいのだが、全てが手に入る本ばかりではない。本を「売る」ときは、よく考えなければならない。

 そして「⑧書く」。本を書いたことはないが、一応この随筆を書いていて、4000字から6000字ぐらいのものを今回で39編書いてきたから、なかなかの量になってきた。量があればいいというものではないが、一定の量がなければ本にはならない。質を抜きにした量だけで考えると本を書いたと言えるのかもしれない。書くことは読むことと同じで辛いこともあるが、快感でもある。書くことで整理され考えが進むのは気分がいいが、行き詰まったり、間違えに気がつくと、取り返しのつかないことをしてしまったような気がして苦しくなる。しかしとにかく新しく書いて、前に進むことしかないのである。この書くことは読むことと裏表というか、一組になっている。読むことで書けるし、書くことで読める。合わせ鏡のようで、どこまでも続く迷路のようでもある。

 最後は「⑨書いた本を売る」。これは目標だ。この随筆を仕上げることが直近の目標だが、遠い目標は書いた本を売ることだ。売るに耐えるものを書く、そして人の手に渡ることによって現象として私の文章や思考が現実を作ってゆく。そのフィードバックをまた言葉にしたいと思っている。

 本にまつわる9つの動詞をあげてみた。人によってはもっとあがってくるのかもしれないが、私はこの9つの行動でかなり楽しんでいる。ではいったい何のためにこのようなことをしているのかと、本棚を眺めながら考えてもみた。本棚を眺める自分を眺めたのだ。つまりは、目の前にあるたくさんの本は、どのような目的を持って集められたものか、集めた人間の意図は何か、深く自分の行動の目的に思いを馳せた。

 まずはその行動自体を楽しんでいる。9つの動詞をあげたが、それぞれ違った本の魅力を教えてくれているので、多種多様な学びができていると思う。一方、仕事で成果を上げるために、生き残るためになどの向上的な目的を持って行なってもいる。新しいことを知ることはワクワクし楽しいが、私はそれを使ってよりよく生きてゆかねばならない。そのために本とかかわるのだ。先人の知恵を借りて賢く、また強くなり生き残るのだ。それは死への不安をかき消す。死の可能性を減少させるのだ。行動自体、すなわち生きることを純粋に楽しみながら、死への不安をかき消すために向上を目指す。これが私の目的である。

 しかし私は漠然とこれら以外の目的も持っていると感じている。うまく言葉にはできないが、『根をもつこと』というシモーヌ・ヴェイユの本の背表紙が、今私には目立って見えている。これは近代化を通じて、故郷を喪失してしまった者が、世界との絆をいかにして再生できるかを問うた本である。私は「根」が欲しい、そう強く心の底で思っている。文化的には日本という国家と、身体的には両親と、それぞれ私の「根」として絆を持っているはずである。しかしまだ何かが足りない。もっと深く、もっと強く、「根」を張ってゆきたい。その「根」はどんなものか、ふでのまにまに本棚を眺めている。

令和6年4月5日

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