モーニングページの変化

 モーニングページをずっと書いている。朝起きて一番に、頭の中にあることをすべて書き出す、これがモーニングページだ。誰に読ませるわけでもないので、何を書いてもいい。むしろ読ませてはいけないそうだ。例えて言うなら、頭の中の掃除だ。部屋の掃除をするときは、とにかくいちど部屋の中のものをすべて出してみると、綺麗に掃除できて整理整頓ができる。それと同じように、頭の中を綺麗にする感覚だ。朝一番でするので、その日1日中、気持ちよいまま過ごすことができる。1年以上続けているが、ほとんど気持ちよい日を過ごしている。モーニングページのおかげだと思っている。

また、因果関係は証明できないが、毎晩浴びるように飲んでいたお酒もぴったりとやめてしまった。もちろんタバコも吸っていない。他に原因らしきものがないのと、モーニングページが、僕にとってとても意味のあるものだから、それらの原因だと感じている。僕はモーニングページが好きなのだ。

 気持ちや考えを文字にすることは、僕にとっては心の安定と思考の具体的な行為として非常に重要である。

 ときおり頭の中で誰かと繰り返し喧嘩をしていることがある。一人二役の喧嘩だ。例えば、僕の場合は父が多い。実際には父と喧嘩することはないが、父の行動に対して批判的な意見を持っている部分があるので、その批判をずっと繰り返しているのだ。また、仕事上での意見の違いなどにおいて、自分の意見が採用されなかったり、理解されなかったときなども、繰り返し議論をしている。喧嘩や議論を繰り返すのはとても疲れることだ。そんなときは、その批判や議論を文字にしてみる。すると驚くほどスッキリする。書かれた文字をみると、あたかも自分を客観視している気持ちになるのだろうか、それに対する冷静な対応が思いつく。まるで友達の悩みに答えるみたいだ。

 仕事をたくさん抱えている時なども、まだ考えが頭の中にとどまっている段階では、思考が深まっていかない。同じところをぐるぐると廻って、「難しい」などと口走り、それ以上行動をしなくなることがある。そんなときも、とにかく書き出してみる。そしたら、さっきまでたくさんの問題があると思っていたことも、数えてみると3つしかなく、そのうち2つはすぐに解決したりする。

 問題を複数抱えていると、問題の数を途方もない数だと認識する傾向がある。例えば、Aの仕事が遅くなり、Bの仕事の開始が遅れたとする。その日は忙しくて、Bの後にもCが予定に入っている。遅れた分を取り戻そうと必死になる。そうするとBの仕事の最中にCの仕事のことを考えてしまったり、手をつけてしまったりすることがよくある。それで余計にBの仕事が遅くなり、出来も悪くなる。必要以上に問題を大きくしてしまっているのだ。こんな時、それぞれの仕事を細かく分けて書き出し、文字にするようにしている。そうすると、どこかの行程は省略することができたり、人に頼めることに気づいたりする。そしたら、遅れた分を取り戻すどころか、予定より早くできるなんてこともある。書き出すことによって、物事を整理することができるのだ。

 このように書くことが好きな僕は、毎朝モーニングページを書いて気分爽快になり、日々楽しく過ごしている。そんな中、「6ミニッツダイアリー」という本を読んだ。これは、朝に3分、夜に3分の、合計6分間の日記をつけることによって、人生を変えるというものだ。

 朝の3分では、①「朝の感謝」②「今日の目標」③「肯定的なアファメーション(言葉)」を書いて、夜の3分では、④「今日した良いこと」⑤「1日の振り返り(明日を良い日にするために)」⑥「今日の嬉しかった出来事」を書く。それぞれ1分で書くので6ミニッツダイアリーだ。

①「朝の感謝」
感謝は人生において、最も重要な感情であり行動である。それを毎朝の習慣にするのだ。対象は毎日変わっても良い。とにかく感謝する対象を具体的に書き記すのである。それが、感謝するという行動にもなるのだ。

②「今日の目標」
今日の目標を持つことで、その日1日を有意義に過ごすことができる。

③「肯定的なアファメーション(言葉)」
肯定的なアファメーション(言葉)を書き記すことで、良いイメージを持って日々を過ごすことができる。例えば、私は成長している最中なので、昨日よりも良い考えを持てる、などの肯定的な言葉だ。

夜は、

④「今日した良いこと」
誰かのために良いことをすると、自分も嬉しい。そのことを意識的に思い出して、その日を肯定的に認識する。また、毎日の習慣にすることによって、良いことをすることが意識の前面に出てくるのである。

⑤「1日の振り返り(明日を良い日にするために)」
1日の振り返りは、どんな些細なことでもいいので、改善できることを見つける。そしてそれを目標にして日々成長するのだ。

⑥「今日の嬉しかった出来事」
ややもすれば嫌なことをパートナーに話してしまうことが多いが、これは聞いている方もいい気はしない。機嫌の悪くなったパートナーを見て、また自分も機嫌が悪くなってしまうという負の連鎖を繰り返してしまうことがある。それを断ち切るためにも、嬉しかったことを意識的に書き記し、そのことから話し始めると、嬉しさの輪が広がるというものだそうだ。

 とにかくいいことづくめの感じだったので、僕のモーニングページに取り入れてみたのだ。

 結論から言うと、僕には合わなかった。書くことを決めていると、窮屈になったのだ。自由に書くことが必要だった。それに気づいたのは、ナタリー・ゴールドバーグの「書ける人になる」を読んだことがきっかけであった。

 書くことにも、運動と同じように準備運動や、野球でいうキャッチボールや素振りなどの基礎練習が必要なのだそうだ。そのやり方は、とにかく書く。「うまく書こう」とか、「こんなこと書いたら笑われるかな」などという思いは一旦追いやって、とにかく書くことをする。そうすると「第1思考」からの文章になるそうだ。「第1思考」とは、文字通り、心の中の最初の思いである。うまい文章を書こうとか、周りの反応を気にするなどのことが、第2、第3の思考である。もちろん、うまい文章や、読み手にどのように伝わるのかを考えながら書くことは必要である。がしかし前述の通り、書くことにも準備運動や基礎練習が必要なのである。「第1思考」からの文章は、書くことの準備運動であり、基礎練習なのだ。この「第1思考」からの文章を書くことにより、テーマに沿ったり、相手に合わせた文章でも、心からの本当の文章が書けるようになるそうだ。

 この箇所を読んで、私は心が軽くなった。「6ミニッツダイアリー」が目指していることはいいことだと思うし、実際、いい日々を過ごした。がしかし、準備運動や基礎練習がなかったので、少し調子が悪くなった。具体的には、イライラしたり、普段はしないゲームなどに夢中になって、無為な時間を過ごした。第2や第3の思考のみに心を奪われ、自由な発想や心からの欲求を抑圧してしまったのだ。

 以前の僕のモーニングページは、確かに自由そのものであった。なんの制約もなく、心の中にあるものを書き記した。何も書くことがないときには、「書くことがない」と書いたのである。しかし、6ミニッツダイアリーの項目で毎朝書き記していると、初めの頃は感謝や嬉しいことを念頭に置くことができて非常に良かったが、途中から息苦しくなった。人生には感謝や嬉しいこと以外のこともある。それらのことを押さえ込んでしまうと、本来的で伸びやかな日々を過ごすことができないのかもしれない。僕の6ミニッツダイアリーには、自由に書ける項目も作っていたが、なぜか自由にはなれなかったのだ。

 そんな息苦しさを感じていた時にこの本に出会った。それからというもの、僕のモーニングページは再び自由になった。そして自由はさらに広がったのだ。

 ゴールドバーグ氏がオススメしていた文章の書き方の中で、詩の一文を書き出し、その続きを創造するというものがあった。例えば、「雨にも負けず、風にも負けず」という宮沢賢治の詩の続きを作ってみたり、「汚れっちまった悲しみに」という中原中也の詩の形式で作ってみたりするのだ。皆さんはどんな続きを作るだろうか。

 私が選んだ詩はアンリー・ド・レニエの「黄色い月」の一文だ。何年も本棚に眠っていた詩集がようやく役に立った。「たよやかにポプラの葉かげにのぼって行く」という一文だ。はっきり言って何も浮かばなかったが、とにかく書いてみた。僕は次のように続けた。

 てんとう虫が登っていく。僕はそれを眺めてから、本に目を戻した。そこにはてんとう虫のことは書いていなかったが、僕が踊っていた。そして僕は空も飛んでいた。自由になった本の中で僕はどんどん大きくなって、なんでもできるようになった。

 自分でも「なんだそれ?」と思った。40を過ぎてこんなことをしていていいのかと少し不安にもなったのだ。特にてんとう虫の後に、なんの脈略もなく踊っている所など、気持ち悪さを感じた。このノートは絶対に人には見せることができない。

 この後、話はどんどんと盛り上がって、幼い頃に住んでいた家の近くを散歩し、犬と遊ぶ。そして、僕を幼稚園に送ってくれている母の様子を遠くから眺める。母は「ここはお金持ちが住んでるところよ」と幼い僕に教えていた。小学校に入って、砂場で遊んでいた幼い僕と市川くんというその頃の友達に話しかけている。最後には習近平とディープステートのボスを目の前にして、話を聞き、メモを取るという場面で終わっている。

 過去に帰り未来にも飛んで行って、なかなかあやしいことになってきたが、僕としては満足している。まず、空想の世界を書いたことがなかったので、新鮮だ。書いているときは、出てきたことを面白いかどうかも考えずに書くので、出来上がったものが自分の発想を超えているような気がして、面白いのだ。そして、この文章は人に読んでもらうものではなく、自分の準備運動や文章を書く練習だと、はっきりと意識しているので、ドロドロとした変な世界に踏み込んでいるというようには感じていない。ゴールドバーグ氏も言っているように、「書いた文章と書いた人は別である」。僕が悲しい詩を書いたからといって、僕が悲しんでいるわけではない。文章を楽しんでいるのである。絵も写実的な絵もあれば、デフォルメされた絵もある。文章だって意識的に変形させて書いてもいいはずだ。

 そんな思考が一つ増えたので、僕のモーニングページの幅は広がった。空想の世界で遊ぶことができるようになったのだ。ただ空想の世界から帰ってこれなくならないように、気をつけようと思っている。

 とにかく頭の中にあるものを書く、テーマに沿って随筆を書く、そして次は、準備運動や基礎練習である自由な文章。

 僕は文章で遊んでいる。最近は、以前から憧れを持っていた詩についてよく考える。詩を読んだり、詩とはどのようなものなのか、どう理解して、どう読めばいいのか、どう作ればいいのか。考えても答えらしきものはない。今の所、詩とは「何者であるかという問いに対する答えである」と考えている。このことについては、また別の機会に書いてみたい。

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