絶対性の誤謬

 長く興味を持って取り組んできた「存在論」。この世の物事はどのように存在しているのか、これを説明しようと多くの哲学者たちが語ってきました。「存在」とは、「変化するもの」であったり、「変化しないもの」であったり、「原子」でできていると言われたり、また、ある「法則」に則って動いていると言われたりしてきました。さらには、ものを離れて「主観的意識体験」として語られることにもなりました。ものが存在するのではなく、ものが知覚されることが存在しているということになるというものです。

 そのような存在論の中で私が最も支持しているのは、「関係性の存在論」と私が呼んでいるものです。ものがたった一つで存在しているのではなく、それぞれが関係し合うことで存在が可能になっているというものです。

 最近読んだ本に、和辻哲郎氏の『倫理学』があります。文庫版で4巻にも及ぶ大著ですので、全部はまだ読んでおりませんが、大変興味深く示唆に富んだ内容でありました。

 和辻氏も「関係性の存在論」の立場で、デカルトの「我思うゆえに我あり」といったような、存在の原因を一つと考えるのではなく、あらゆるものが関係し合いながら存在していると考えています。一方では個人主義的な近代精神を高く評価もしています。「個人の把握はそれ自身としては近代精神の功績であり、また我々が忘れ去ってはならない重大な意義を帯びる」。しかし、近代精神を評価しつつも次のように批判しています。「個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤謬の元となるのである」。

 これと同じようなことを数学者であり哲学者でもあるホワイトヘッド氏は「具体的なものをとりちがえる間違い」と呼びました。具体的な状態をいったん抽象化して把握しているにもかかわらず、抽象化したことを忘れ、その結果の方を具体的なものだと我々は思い込んでしまうと言うのです。例えば、ある音楽家が人々を喜ばせたいと音楽を作りました。その結果多くの人々が喜んでくれましたが、どれくらい多くの人に喜んでもらったかは、音源の売り上げを参考にしました。したがって音楽家は売り上げを伸ばすことに注目し、音楽を作り続けたのです。その後売上は伸びましたが、実際には人々はあまり喜んでいませんでした。この状態を「具体的なことをとりちがえる間違え」ということができます。「人が喜ぶ」という具体的な状態を「音源の売り上げ」に抽象化して把握したにもかかわらず、抽象化したことを忘れて、「売り上げ」が上がることが具体的な状態、すなわち「人が喜ぶ」と思い込んでしまっているのです。このような誤謬を近代精神は含んでいると言うのです。

 さらに「ものは関係し合いながら存在している」という状態を和辻氏は「間柄」という言葉で説明しています。「間柄とは自と他とに分かれつつしかもかく分かれたものが合一することである」。この世の現象はさまざまなもの同士が複雑に関係しあっています。例えば、花火が夜空に上がるとします。その時、火薬が燃えているという現象だけでなく、空気が存在しているという現象も含みます。なぜなら火薬は空気がなければ燃えないからです。また、花火に点火した人が存在するという現象も含みます。花火は人が点火しなければ上がりません。さらには、花火に点火した人を出産した母親がいるという現象も含んでいます。人は必ず母親から生まれてきます。このように現象は無限ともいえるつながりを持っているのです。この複雑な状態を一つずつに分けて、それらをまた結合させること、これが間柄であります。花火を見ている母親、「自」と、母親に見られている花火、「他」は、花火に点火した息子を接点として結合される。分かれたものが合一するのです。このような関係を「間柄」という言葉で言い表しました。

 また和辻氏は「統一、分離、結合」という連関においてこの世界を説明しました。「統一」とは、世界そのものです。それは複雑に絡み合って「もの」と「もの」、「出来事」と「出来事」の境界がなく、曖昧である状態です。この世界は「統一」され、一つなのです。それを「分離」する。つまり、区切りをつけるのです。「もの」と「もの」、「出来事」と「出来事」、これらを我々の感覚で、勝手に区切るのです。先ほどの例えで言うと「花火」や「空気が存在する」という「一つ」の「もの」や「出来事」に分離するのです。しかし、この区切りは我々が勝手につけた区切りであって、本来これらのものや出来事には区切りがありません。そして「結合」する。区切った「もの」や「出来事」を例えば文章にして結合させて「間柄」を作る、すなわち関係させるのです。母親が息子の点火した花火を見る。この世界を言語的に表現しているのです。

 しかし、この言語的表現は、抽象化であって、具体ではありません。先ほどのホワイトヘッドの「具体的なものをとりちがえる間違い」をしてはならないのです。「母親が息子の点火した花火を見る」という文章には、単純な親子の現象だけではなく、空気が存在するというような環境的諸条件の存在をはじめ、全宇宙の存在がそこには含まれているのです。

 世界そのものである「統一」の状態と、人間が「分離」し「結合」した世界は似ているようで、違う世界です。「統一」の状態である世界には切れ目がなく、まるで全てが一つの生命体のように関係しあっている状態です。「もの」や「出来事」には境目がなく、全てが一つの運動です。一方、「結合」した世界は、人間が「もの」や「出来事」を理解するために一度「分離」、分けたものを再び一緒にしたものです。「もの」や「出来事」には、境界があります。

 この違いから時間と空間が生まれると和辻氏はいいます。「主体の分裂、分裂せる主体の合一、この分裂と合一との運動が根源的に時間的空間的なのであって、(中略)一言に言えば、時間空間は人間存在から出てくるのであって、逆に人間が時間空間の中にあるのではない」。言葉が違うので同じにしておくと、ここでの「主体」は、「世界そのもの」であり、「分裂」とは「分離」であり、「合一」は「結合」です。これにしたがって言い換えると、「世界そのものを分離し、分離された世界を結合する、この分離と結合の運動が、根源的に時間的空間的である」と述べています。つまり、人間が世界そのものを理解しようとして、「もの」や「出来事」に分けることによって、時間と空間は現れると言うのです。そして「時間空間は人間存在から出てくるのであって、逆に人間が時間空間の中にあるのではない」。つまり、絶対的な時間や空間の中に人間が存在するのではなく、人間が存在するから時間や空間は生まれるのだといっています。

 同様のことを理論物理学者のカルロ・ロヴェッリは、「概念を使って記述すると、実際に起きていることを曖昧に見ることになる」とし、「このような曖昧な見方をした時だけ過去と未来が明確に異なるものとして立ち現れる。」と述べています。「概念を使って記述する」というのが「分離」することであり、人間が世界そのものを理解しようとして、「もの」や「出来事」に分けた時だけ、「過去と未来が明確に異なるものとして立ち現れる」、つまり時間が存在するといっています。このことは、一般的な感覚では逆のような気がします。がしかし、ここでもホワイトヘッドの「具体的なものをとりちがえる間違い」をしてはならないのです。時間や空間が先にあるのではなく、人間の理解のための概念が時間や空間を生み出してしまっている。人間は時間や空間を設定しなければ、この世界を理解することができないのです。よって時間や空間を設定するという、抽象化したことを忘れてはならないのです。世界そのものには、このような概念は存在しないのですから。

 絶対時間や絶対空間という概念を設定したのは、ニュートンです。他の何ものにも影響をされずに、独立して継続的に一様に流れていく時間と、他の何ものにも影響をされずに「不動なるもの」を中心にして独立して存在している空間です。このニュートンが設定した絶対時間と絶対空間は、地球上の狭い範囲なら適用される概念ですが、視点を宇宙に移した時、その絶対性は崩れ去りました。そのことを証明したのがアインシュタインの相対性理論でした。時間や空間は相対的である。例えば、地球上とその上空を高速で飛んでいる人口衛星上では、時間の進み方が違うのです。相対性理論はその時間の進み方のズレを計算することができ、現在GPSなどの技術に使われているようです。

 ここで先に述べた和辻氏の近代精神、個人主義への批判を思い出します。「個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤謬の元となるのである」。ニュートンは物理現象のある狭い範囲の前提に過ぎない絶対時間や絶対空間を宇宙全体に適用しようとした。その抽象性があらゆる誤謬の元になっている。

 近代精神、個人主義が生み出したものに基本的人権というものがあります。人間が人間として当然持っている基本的な権利であり、自由権、参政権、社会権に分かれています。人間は生まれながらにして自由、平等である、という近代自然法思想に由来し、イギリスの権利章典、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言などで確立されたものです。この考え方によって、人類は平等になり、それまで虐げられてきた人々がたくさん救われました。いわば人々を幸せにする精神であります。しかし、これも「具体的なものをとりちがえる間違い」をしてはならないものの一つであると思われます。この基本的人権という概念は、世界そのものにはなく、人間が歴史の中で、その経験から生み出してきたものであり、絶対的なものではありません。よって人間の幸福の条件を抽象化したものに過ぎません。この概念は、他の環境や条件によって変化するべき存在なのです。それを絶対視した時、かの誤謬は起きてしまうのではないでしょうか。その誤謬がヒステリックな思想に煮詰められて残忍な殺戮を生み出している。そんな光景を歴史を通じて我々は見てまいりました。和辻氏もいうように、我々は近代精神、個人主義に助けられてきています。忘れ去ってはいけないものであります。がしかし乗り越えなければならない誤謬があることを認識するべきです。そして、それを皆で語り合うべき時はすでに到来しているのです。

令和4年12月4日

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