天王山の水底

 雨がたくさん降った次の日、私は彼女と一緒に天王山に登った。天王山は京都府南部に位置し、南北朝や応仁の乱では戦略上の要地となり、また織田信長を討った明智光秀とその仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いなど、いわゆる「天下の分け目」の山である。標高は270メートル。私は1年間京都の愛宕神社という標高924メートルのところにある神社に奉職していたので、山に登ることには慣れているが、それも10年近く前の話で、天王山に登ったら息が少々切れた。
 中腹に、厳島社というお社があった。イツキシマヒメという水の女神をお祭りした社だ。とても小さく古い社であったが、真新しい榊が供えられていて、ちゃんとお参りがあるようだった。昨日の大雨の影響か、もしくは普段からそうなのであろうか、その社の周りは水浸しで、池のようになっていた。10メートルほど先には藤棚があり、咲き残った花が垂れ下がっていた。その奥にはどこまでも続く水面が光っており、水底まで透き通っていた。この景色がとても印象的であり、今でも思い出すことができる。
 私たちのお目当ては植物。かわいい植物があれば一ついただき、家に持って帰って鉢に植えて育てたかったのである。そうやって幾つかの植物を育てている。一般に山採(ヤマド)りというようで、これがものすごく楽しい。
 今回はお気に入りの植物には会えなかったけど、蕨を採ることができた。くるっと丸まった新芽が可愛かったのと、彼女がお吸い物にして食べるのが大好きなので、初めは少しだけと考えていたが、気がつくと袋がどっしりと重たくなるくらい採ってきた。しかし、こちらを帰ってから重曹であくぬきをして料理をしたが、ものすごく渋くて食べることができなかった。どうやら蕨ではないものを採ってきてしまったようだ。初心者によくある失敗であると思う。
 新聞に書いてあったことによると、夏になればみんな海か山に遊びにゆくが、海に行く人は外交的で、山に行くのは内向的な人だそうだ。人が集まる海でわいわいと楽しむ人と、緑の中で静かに黙々と山に登る人。私たちは後者であった。
 内向的な人間だからだろうか、私は最近「EFT」というものに興味を持った。これは90年代にアメリカ人のエンジニア、ゲイリー・クレイグ氏によって開発された、顔や体にあるツボを指で刺激して、気血の流れと感情のバランスを整えていく心理療法だそうだ。何かの本に紹介されていて、なぜかこれに興味を持った。
 方法は、問題点を意識して心を解放するための言葉である「リマインダーフレーズ」を作り、これを繰り返し声に出しながら、9つほどあるツボを2本の指で軽くタップしてゆくというものだ。「リマインダーフレーズ」とは、「一人ぼっちで寂しいけど、私は大丈夫。」というように、ネガティブな感情とそれを受け入れるポジティブな言葉でつくる。そして東洋医学に基づいた、いわゆるツボを指で刺激することにより、感情のバランスが整い、その影響で体も健康になってゆくようだ。
 確かに最近は音楽活動でストレスを感じていた。音楽の制作はもちろん楽しいが、苦しくもある。私の場合、頭の中で音楽が鳴り止まないのである。レコードを止めて、楽器をおいても音楽は止まらない。それは所構わず私の頭の中に入ってきて、繰り返し鳴り響くのである。いくら音楽が好きでもしんどくなる。また、バンド活動にまつわる古い記憶が呼び起こされて、思い出さなくてもよいようなネガティブな感情で心を満たしてしまうこともあった。
 さらには、子供の問題行動も私のストレスに拍車をかけた。周囲の人間に悪態をついて迷惑をかけ、反省をして謝っても繰り返すのだ。離婚をして一緒には住んでいないが、やはり気になって、話を聞きに行ったり、説教をして後悔したり、なかなか苦しい日が続いた。
 そんな私の状況が「EFT」に興味を持たせたのかも知れない。これは、感情を整え日々を穏やかに暮らすのに役立つように思えた。実践をしてからまだ2週間ほどである。効果があったかどうかを証明する手立てがないが、なんとなく続けてゆきたい習慣になっている。今は思い出した過去の煩わしい記憶をリストアップして、一つずつ「EFT」で感情を解放している。「リマインダーフレーズ」を作り、タップをすることで、繰り返される負の感情の影響は少なくなっている。
 「リマインダーフレーズ」は、先に述べた通り問題点を意識するためのものである。このようにしっかりと問題点を明らかにしなければ、心理的逆転によって、こういった療法は効果がなくなることがあるそうだ。心理的逆転とは、意識の表層で望んでいても、無意識の奥深くでは、それを望んでいない状態のことを言うようだ。例えば、精神疾患を患っていて、表面上はそれを治したいというが、心の奥底では病気を治したくないと思っているような状態で、その病気を何かに利用していたりするらしい。人の気を引きたいとか、自分の悲惨な状態を見せることで誰かに何かを訴えたいなどの目的が潜んでいることがあるようだ。それを意識的に行なっている場合はまだマシだが、無意識に行なっている場合は、本人も周りも苦労することになってしまうだろう。
 私の場合も、音楽の制作においてひどく悩み、メンバーにもその様子を見せるように振る舞ってしまう時は、もしかしたら「みんなにかまってほしい、作品を褒めてほしい」と思っているだけかも知れないと、自己を省みたのであった。
 現在の煩わしいことをリストアップしていくと、その原因を探りたくなってくる。うちの子供はなぜ友達に意地悪をするのだろう、嘘をつくのだろうと、考えるのだ。すると、子供が小さい頃に私がとった行動のうちの、後悔しているものなどが思い出される。理不尽に怒ってしまったことや、あまりかまってあげられなかったこと。私の場合は離婚をしているので、余計に思うのである。そうすると、その時の感情が蘇って、苦しくなることがある。過去の感情はまだ過ぎ去っていないのであった。それをEFTで解きほぐしていくことは、自らの内側を見つめて、整理整頓してゆく作業だと感じた。文字通り内側へ向かう内向的な行為である。
 そういえば20代の頃に「インナーチャイルド」というものにも興味を持った。「傷ついた子供の心」という言い方をされるみたいだが、子供の頃に満たされなかった欲求が、その後の人生に影響を与えるというものだ。こちらも心に残る古い記憶をさかのぼり、満たされなかった欲求を見つけ、癒してゆくという内向的な行為である。
 「EFT」は「内なる平和」を実現するために行うようだ。心理的逆転によって複雑になった感情を解きほぐして、抱えている問題を極力減らしてゆき、穏やかで透き通った内面の実現を目指すのだ。「インナーチャイルド」も、子供の頃に満たされなかった欲求をはっきりと意識して、満たしてゆくことによって、自分の中の駄々をこねる子供を素直な笑顔に変えてゆくのだ。
 先日、芝古墳という古墳のお祓いをした。荒れ果てた古墳を京都市が公園として整備するとのことだった。その工事を請け負った業者の方が、古墳というとお墓だから、なんだか気味が悪いと、霊能者の知り合いに見てもらったところ、埋葬されている方と思われる霊が見えて、とても寂しそうにしておられたが、工事が行われ古墳が綺麗になることを知って喜んでいたとのことだった。喜んでおられるのは良かったが、霊がそこにいるということを知った業者の方は不安になり、お祓いをご依頼されたのだ。
 お話を聞いたり、古墳についての資料を読んだり、実際に現場を見たりして、関係者が参列する中、心を込めてお祓いをした。このお祓いが済んでから、その古墳の雰囲気は明るく変わった。霊能者の人が見ると、埋葬者の黒かった装束は、明るく黄色に輝き、その後、上にあがって、今は古墳にはおられないということだ。古墳が綺麗になったことと、関係者に丁寧に祀られたことによって、御心を穏やかにされたのかも知れない。
 死者の心に無念があると成仏しない、天に登ることができない、そんなことを聞いたことがあるが、これは生きている人間も一緒かも知れない。感情の整理がついていなかったり、満たされない欲求があると、モヤモヤして安心できない。それらを晴らすと成仏できる。「EFT」や「インナーチャイルド」を勉強している私は、成仏したいのかもしれない。
 朝起きて頭の中にあることを書き出すモーニングページ。このおかげで私は離婚が原因の「酒浸り」を脱することができた。一種の成仏できていない状態であった「酒浸り」から、頭の中の悩みやアイデアをはっきりと言葉にすることによって、澄み渡った天に昇ったような状態になったのかも知れない。「EFT」でも感情を乱す対象をしっかりと言葉で捉える。言葉の「事物を分節する力」は、心を安定させ、成仏させてくれる。はっきりと自分が何に悩まされているのか、何をしたのかを認識した時には、その悩みや苦しみはもうないのかも知れない。言葉にすることの力は人生を変えると感じている。先人から受け継いだ言葉、この日本語は、私たちをこのような形でも守ってくれている。
 天王山の中腹にあった厳島社。その周りは池のように水が溜まっていた。一見透き通っているように見えた水面だが、よく見るとところどころに枯葉が浮かび、流れが滞っているところもあった。水は意識の象徴だと言われるが、この雨あがりの水たまりのように、意識の表面にたくさんの枯葉、つまり悩みが浮いている状態は、散らかっていて辛いのかも知れない。水底まで澄み渡って見える状態、心の奥底まで透き通っている状態が、成仏なのであろうか。
 厳島社に祀られるイツキシマヒメは、日本神話の中でアマテラスとスサノオが、天眞名井(アメノマナイ)で行った誓約の際に、アマテラスがスサノオの剣を噛んで吹き出した霧から生まれた水の神である。日本の神は、自然、先祖、文化が包含された存在である。水という自然物や言葉を紡いできた先祖、そしてそれらから生まれた学問という文化。これらは我々を守ってくれている。心の水面に枯葉を浮かべながら山に登り、持ち帰った蕨ではない植物を食べて、苦い顔をして笑っていた私たちという駄々っ子。言葉や、そこから生まれた「EFT」や「インナーチャイルド」などの学問を使って不器用に歩いてゆく私たちに、神々は「天王山の水底」を少し垣間見せてくれている。

令和5年5月16日

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