多言語という手段

 多言語というのに興味があって、また本を買った。

 学生の時から英語は得意であったが、卒業してからほとんど触れ合う機会もなく、身につけたことを忘れてしまっていた。8年ほど前、仕事を辞めて1年間伊勢で勉強して帰ってきてから、お金がなかったので家庭教師のバイトをした。その時久しぶりに英語と向き合ったのだ。それからもっと勉強したくて、オンラインのレッスンに申し込んだりもした。そうしているうちに英語だけでなく、他の言語も読んだら楽しいだろうと思うようになり、フランス語の参考書を買ったりしていた。

 今回多言語を目指して本を買ったのは、3回目ぐらいだ。細々としたものも買っているから、回数は曖昧である。前回のフランス語は、入門書、参考書、辞書、を買って、毎日YouTubeを見ながら発音していたが、目標や勉強する意味がわからなくなって、辞めてしまった。こんなことしているなら他のことに時間を使った方が役に立つと感じるようになったのだ。フランス語初心者として勉強している内容をブログにアップして、PVを稼ぐためと、自分の備忘録としてコツコツとやっていたが面白くなくなった。

 言語は「目的」ではなく、「手段」でなければならない、と今思う。私の経験上、英語を話せるようになりたいという気持ちでは、勉強は進まなかった。それよりも、そこに書かれているものが知りたい、や、英語しかわからない人に何かを伝えたい、というような、ある言語を話すことが目的ではなく、別に叶えたい目標をその言語を使って達成するというのが、一番の上達方法だと感じている。

 私が受けているオンラインの先生は、イギリスのネイティブの先生で、なかなか綺麗な人である。以前は先生と話したい、褒めてもらいたいという欲求があったので、単語を一生懸命に覚えたり、事前に伝えたいことをあらゆる手段を使って用意したものだ。特に男性にとって美しい女性というのは最も強力な動機となるだろう。しかし離婚をして寂しかった私に恋人ができてからというもの、以前のような情熱は消えてしまった。綺麗な女性と話したいという欲求は、別に英語を話さなくても解消されるようになってしまったからだ。しだいにひと月に受けるレッスンの回数が減っていき、今は月に一回も受けていないこともある。春頃に、海外から結婚式を挙げに来られる方々への英語での説明を指導してもらってからは受けていない。

 それでも英語だけは毎日触れ合って忘れないようにしようと思い、英語の本を読んでいた。一行だけでもいいからと、ハードルを下げて習慣づけたのだ。読んでいたのは「7つの習慣」というビジネス書だ。この本は3年ほど前に夢中になり、紙の本はもちろん、オーディオブック、そして英語版をKindleで持っている。さまざまなビジネス書があるが、これ一冊でいいのではないかと言われているほどの名著で、私も影響を受けた。繰り返し読んで聞いたので、内容は全て覚えている。だから英語版を読んで単語がわからなくても、おおよその内容は理解でき、わからない単語の意味も推測できる。しかし、今回多言語のために新しく本を買ったのは、「7つの習慣」の内容に飽きてきたからであった。素晴らしい本ではあるが、他の本も読みたくなってきたのだ。

 かといって、なんでもいいから英語や他の言語の本を読めばいいというのは乱暴すぎると考えた結果、「星の王子さま」を買った。内容は全く知らなかったが、子供向けの本でありながらも大人も面白く読めるような印象だったので決めた。また、この本ならさまざまな言語に訳されているだろうから、一度内容を覚えてしまったらいろんな言語で読むことができると思ったのだ。電子書籍では並べて読むのには適していないので、紙の本を買うことにした。メルカリを探せばたくさん出てきたのである。まずは手始めにドイツ語、次にフランス語と英語、そして最近日本語を買った。まだ届いていないが中国語も注文した。

 多言語を学ぶ準備は着々と進んでいる。着々と進んでいるがしかし勉強は進んでいない。とても残念ではあるが、予想していた結果でもある。ひるむことなく進んでいこうと思う。もちろん全くページを開いていないというわけではない。どの言語も少しは読み進めたが、やっぱり難しい。英語はある程度はわかるものの、日本語訳を読むと少し思っていたのと違ったりする。他の言語のものがわからないのは当然である。Google翻訳のアプリを使って単語を調べながら読み進めていて、意味と発音も再生されるから大変便利だ。だがなかなか読み進めることができていない。せっかく買ったのに、そしてまた中国語版も届くのにと焦ってしまうが、以前永田希氏の「積読こそが完全な読書術である」という、本を読まずに積んでおくことを肯定する本を読んでしまってから、買った本を読まないことに対する抵抗が全くなくなってしまった。よかったのか、悪かったのか、とにかく今は積読を楽しんでいる。本はそこにあるだけで私に対して何か影響を与えていると考えるようになったのだ。今回買った「星の王子さま」たちは、その内容もさることながら、多言語について私に何かを語ってくれるであろう。

 実は、買ったのは「星の王子さま」だけではない。もう一冊、というよりも、もう1ジャンルの本を買った。それは『哲学史』である。選んだ理由の一つ目は、読書の発展である。酒を毎晩浴びるように底なしに飲んでいた頃から、モーニングページをきっかけに、酒の代わりに本を読むようになった。当初は自己啓発やビジネス書などの手軽な本を読んでいたが、しだいに古典なども読むようになり、最近では哲学書を読めるようになった。もちろん自己啓発やビジネス書が価値のない本であるという意味ではない。読むことの難しさについて言っている。哲学書が読めたことは、私にとっては快挙である。もともと大学は哲学科であったので哲学書は読んでいたが、全く理解できていなかった。当時は読めていると思っていた本も振り返ると勘違いだらけである。そんな私が、今は楽しく哲学書を読んでいる。もちろん全ての哲学書があっさり読めるというわけではないが、そんな本が増えてきた。その流れの中、海外の哲学書を原文で読んでみたいと思ったのだ。しかし、1年ほど前にホワイトヘッドという哲学者の「観念の冒険」という本を原文の英語で読んだ。これは本の選択から間違っていると思うが、全くわからなくてすぐに挫折したのだ。ホワイトヘッドといえば難解で有名で、日本語でも何をいっているのか、解説本でさえわからないものを、原文のPDFがネット上に転がっていたので、飛びついて読んでみたのだった。文字通り、「飛んで火に入る夏の虫」で、わからなさすぎて燃え尽きた。その経験から哲学書の原文はまだ難しいかもしれないが、著者の経歴やその哲学の簡単な解説が書かれている『哲学史』なら理解できるかもしれないと思い、『哲学史』というジャンルを選んだのだ。この予想は的中であった。経歴などは複雑な概念ではないので大体わかるし、哲学者の特徴や用語もある程度知っているから、それらを見つけることも楽しいのであった。

 2つ目の理由は、このジャンルだと言語が「手段」になるからだ。哲学の内容には興味があるから知りたいという情熱がある。その情熱が言葉の壁を越えさせてくれる。正直、先ほどの「星の王子さま」の内容にはさほど興味がない。だから次を読みたいとか、これを覚えておきたい、という気持ちにならない。言語を「目的」ではなく「手段」にしなければならないことは知っていたのに、やってしまった。とにかく読書の対象がマニアックになってきたことと、「目的」ではなく「手段」として多言語を扱うことができる、この2つの理由から『哲学史』を多言語で読んでいる。

 しかし、『哲学史』の本を探すのに苦労している。今手元にあるのは英語の哲学史だ。Amazonで探してメルカリで買った。なんとなく選んだものが私にはあっていた。他には電子書籍でドイツ語版、週明けにはフランス語版がやってくる。ドイツ語版は、哲学者で分けて書かれていなくて少し読みにくいが、知っている用語が出てくると嬉しいものだ。フランス語版がどんなものかはわかっていないが、またいくつかの問題があってもおかしくない。できれば中国語版の西洋哲学史があれば嬉しいが、探しているが今のところ見つかっていない。

 そもそもなぜ多言語に興味があるかといえば、ただ「かっこいい」とか、「頭が良さそう」などという理由だ。大した意味があるわけではない。あえて言うなら幼い頃に思い出があるからかもしれない。私は6年生の頃に近所のおばちゃんがやっている英語塾に通い始めた。田んぼの中にあるマンションに住む小太りのおばちゃんだったが、通訳などもしていたみたいで、本格的な英語の先生だった。この先生のおかげで英語が得意になり、好きになった。英語にまつわる話も面白く、毎週の塾の日が楽しみであった。さらに、この先生の娘さんも英語がペラペラで、私が中学生になった頃、その娘さんは大学生だったが、英語、ドイツ語、フランス語、中国語を勉強していた。子供心に天才だと思った。そんな嘘みたいな人が印象に残っていて、「すごい人」の原型が私の心に焼き付き、知らず知らずのうちにそちらへ惹かれているのかもしれない。

 内容を知っている本やジャンルを多言語で読む。これはいい作戦だと思う。わからない言語を読むことのハードルを少し下げてくれる。これは言語を「表現面」と「内容面」に分けて考えることを提唱したソシュールからヒントを得た。

 ソシュールは近代言語学の父である。彼は言語を三つの構成要素に分けた。1、能記(シニフィアン)2、所記(シニフィエ)3、指示対象。1の能記(シニフィアン)は、言語の音声表現面であり、2の所記(シニフィエ)は、その内容面である。たくさんの言語を使用することは、この1の能記(シニフィアン)が変わるだけで、内容面は変わらない。そう考えると、物事の別名を覚えればいいだけだと感じて、ハードルが一気に下がる。別名をそれぞれの文法に合わせて並び替えるだけだ。そんなふうに考えたら、もしかして私にも多言語が操ることができるかもしれないと考えたのだ。だが、そんなに単純なものではないだろう。

 言語が違えば、現実の切り取り方や、その背景が違ってくる。日本語には蝶と蛾を区別するためにそれぞれの名があるが、フランス語ではどちらともパピオンである。区別はされていない。また、タコは日本では美味しい食べ物であるが、海外では悪魔のような扱いをうける。現実の切り取り方や歴史が違うので、それぞれに違った世界があるのだ。

 多言語の窓から見えるそれぞれの世界は、似ているようで少しずつ違うのだろう。それらの違いが、現実に奥行きを持たせてくれるかもしれない。神谷美恵子はその著書「生きがいについて」の中で、次のようなことを述べている。まず「視界によって、ものの奥行を認識できるのは眼が2つあるからである」とし、「2つの異なった角度から同じものをみているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行もわかる」と前提した上で、「ひとの心に、2つ、またはそれ以上の世界が成立し、それぞれの世界から、各々別な角度で同じ1つの対象をみるとしたら、この『心の複眼視』から、ものの深いみかたと心の奥行が生まれるのではないだろうか。」と述べている。

 つまり多言語を読むことによって、現実をさまざまな角度から捉えて、その奥行きを理解することができるのではないだろうか。先日「旧約聖書」「新約聖書」「コーラン」を「マンガで読破」で読んだ。兄弟のようなこれらの本からはそれぞれ違った印象があり、文字通り現実の奥行きを感じたのである。私の多言語はまだ実現されていないが、この奥行きを知るための「手段」として取り組んでいこう。

令和5年9月18日

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