詩に憧れている。詩についてなにも知らないし、読んでもわからない。一体何なのかを説明することもできない。でも、憧れて求める気持ちがずっとある。モーニングページで毎日文章を書くようになった今、また詩への憧れが激しくなってきた。
一番にあげる詩人の名は、宮沢賢治だ。「雨ニモマケズ」や妹の死についての「永訣の朝」などは、とても感動した。だが、「屈折率」という詩などは全くわからない。
屈折率
七つの森のこつちのひとつが
水の中よりもつとあかるく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
(またアラツデイン 洋燈[らんぷ]とり)
急がなければならないのか
以下に解説を引用する。
賢治はこの詩の中で、七つの森のこちら側のひとつが、水の中よりも明るく広々としているのに、彼方にはもっと明るくて広々としたところがあるように思い、そちらへ向かってでこぼこ道を歩いていく。だけれどもそんな風に見えたのは、こちらの森の明るさ広さが光線の屈折率の作用によって、彼方に蜃気楼のように写っただけだということがわかる。結局自分が郵便脚夫のように急いだ努力は無駄に終わってしまったというのだ。
なぜ目の前に明るくて広いものがあるのに、あるかないかわからぬもっと別なものを求めて歩き続けねばならぬのか。
この素朴な疑問の中に、この詩のテーマと、宮沢賢治という作家の秘密が潜んでいる。
引用https://kenji.hix05.com/kenji03.kussetu.html
解説を読むと理解できたが、詩だけを読むと、全くわからない。「ちゃんと説明してくれないとわからない」と言いたい、若干怒り気味で。
僕には行間を読んだり、想像する力が欠如しているのだろう。僕は詩を読むには適していない。がしかし読みたい。理解したい。そして自分でも書きたいのである。
海外の詩人も読んだ。オクタビオ・パスは、「弓と竪琴」という詩論も読んだが、わからない。僕には全く詩の素養がない。詩を読んでいる人は一体どんな勉強をしているのだろうか。わからない。
最近、ゲーテの詩集を買った。これは読める。恋愛を歌っている。
会う瀬と別れ
胸はときめく、急ぎ馬に!
思うより早く立ち出でぬ。
夕べははや大地を眠らせぬ。
山々には夜のとばりがかかり、
かしの木はもやをまといて、
雲つく巨人のごとく立てり。
そのあたりの茂みより
数知れぬ黒き目もてやみはうかがえり。
月は、山かとまがう雲の間より
狭霧を分けて悲しげにのぞけり。
風は軽き翼を振るいて
わが耳もとに恐ろしき音を立てぬ。
夜のやみにものみな怪物のごとく見ゆれど、
わが心は生き生きと楽しかりき。
わが血管には何たる火!
わが胸には何たる熱!
君を見たれば、やさしき喜び
その甘きまなざしよりわが上に流れ来ぬ。
わが心は残りなく君がかたえにあり、
わが息吹も君を思わぬはなかりき。
バラ色の春の空あい
君が愛らしき面ざしを包みぬ。
わがために君が示せる優しさは、おお神よ、
わが望みを超え、わが分に過ぎたり。
されど、ああすでに朝の日のぼりて
別れの悲しみわが胸をしめつけぬ。
君が口づけには喜び溢るれども、
君がまなざしには深き苦しみの宿れり。
立ち出ずれば、たたずめる君は目を打伏せ、
うるむ目もてわれを見送りぬ。
されど__愛さるるは何たる幸福ぞ!
神々よ、愛するは何たる幸福ぞ!
夜中に恋人と会うのに急いで向かっている。夜が更けた不気味な風景とは対照的に、ゲーテの心は生き生きとしている。女性の優しさは彼にはもったいないぐらいだ。とにかく幸せそうだ。しかし朝が来た。別れの時だ。別れを惜しみながら、愛されること、愛することの幸福を叫んでいる。
情熱的でとても気に入っている。ゲーテの人柄はよく知らないが、かっこいい人だなと思った。他の文学作品も同じだが、詩は作者によって共感できるものとそうでないものがある。小説などと比べるとその差は大きいと思う。全くわからないものや、胸が熱くなるほど共感するものもある。
「詩とは何者であるかという問いに対する答えである」とゲーテを読んでいて思った。作者がどんな人物かを物語るような文章が詩である。だから、恋を歌おうが、人生を歌おうが、死を悲しもうが、その人がどんな人かが伝わってくればそれは詩である。言い換えれば、生命なのである。生命はある印象や熱を持ってこちらに働きかけてくる。詩も、こちらに対して何かを言っている。そこに生きている、動いている何かを感じる場合、僕はその言葉を発している元を何者かと判断し、命を感じるのだ。全てを知ることはない。がしかし、そこには動き出し、働きかける命がある。
詩に憧れているので、詩を書いたことは一度や二度ではない。たくさん書いて、たくさん捨てた。たいていが読み返すのが恥ずかしくなるような気持ち悪いものを書いた。下手だからああいう気持ち悪いものを書くのか、詩を理解していないから書くのか、とにかく誰かのせいにしたいぐらいキモいのだ。恥を忍んで古い僕の詩を披露する。すぐに忘れて、誰にも言わないことを誓ってから読んでほしい。
無題
ここに降る雨を
君に届けたい
いつも君とこの窓から
晴れた空や
真っ黒な雲を見つめて
僕の心に浮かぶ言葉を
音にして
寄り添っていた
あの日は急に雨が降った
君はこの窓にもたれ
すこし笑いながら
買い物は明日ねと言って
もう何もしないとばかりに大きく座った
僕は僕らしく
君は君らしく
にっこり笑って
見つめあった
その日の雨と
今日の雨はすこし似ている
でも
君がいないので
僕は笑いあう人がいない
でも明日には
でも来週には
でも来月には
君といるはずだと
僕は僕らしく笑ってみた
この気持ち悪さは一体どこから来たのだろう。僕の内面の未熟さか、馬鹿さ加減か。詩とは恐ろしいものだ。「君に届けたい」がキモイ。届けて欲しくないのだ。そのあとに仲が良い風な事を思い出しているが、ジトジトしていて、気持ちわるい。急に雨が降る感じも、「オシャレでしょ」と言わんばかりのわざとらしさに、サブイボが立つ。「にっこり」笑うな!「君」っていう呼ぶな!「僕らしい」とか、「〜らしい」みたいな事を言う奴とはもう喋りたくない!涙。
こんなキモイ詩も書いたが、もう少しマシなものも書いている。
カンカンラカン
あの子 どこの子 おかっぱの
真っ赤なリボンのかわいい子
夕焼け パチパチ 燃えている
一つ目の曲がり角
雲の上から伸びてきた
赤色おテテは 神様の
冷やしたおミミは もう少し
季節がはずれて感じるわ
遠くに聞こえる 見知らぬ歌は 誰なの
ミツバチの羽の音か 砂にもぐり込む貝の歌
カラス帰ろか 鳴いている
社の御鈴が チンチロリン
あの子の父さん まだやろか
はよ来い やれ来い もう暗い
あの子 知った子 そばかすの
真っ赤なマフラー かわいい子
水面がカチカチ まぶしい
二つ目の 水たまり
山の上から伸びてきた
桃色おテテは 神様の
もこもこ毛糸は もう少し
季節がはずれて感じるわ
遠くに聞こえる 見知らぬ歌は 誰なの
百と八つの鐘の音か 北風小僧の寒太郎
泣かぬならどうしよ ホトトギス
お寺の御鐘が ゴンゴロリ
あの子の母さん ときめいて
かきくけカラカン もう帰ろ
この詩にはメロディーが付いている。なかなか気に入っていて、今でも歌う事がある。題の「カンカンラカン」は、「羅漢(らかん)」に「カンカン」という意味のない音をつけたものだ。「羅漢」とは仏教の悟りを開いた人のことである。「十六羅漢」といって、お釈迦さまの弟子の中でも特に優れた16人がいらっしゃって、それぞれ「何々第1」とお釈迦さまから褒められる特技を持っている。みんな違っているが、みんな優れている。この理想的な世界を季節の移り変わりの中で表してみた。
赤いリボンの女の子を中心に、季節の移り変わりを描写した。対句なども使って形式的に書いた。一つ目の「無題」は自由に書いたが、こちらはメロディーに合わせて書いたので、字数などが決まっていた。こういう制約がある方がいいものができる気がする。
季節は夏の終わり頃から始まる。雲の上から伸びてくる赤色おテテは、紅葉の事だ。空から冷気が降りてきて葉っぱが色づく。そろそろ寒くなってきたので、冷やした水は冷たすぎるのだ。僕の小さいころ、母は水の事をおミミと言っていた。遠くから聞こえるのは、過ぎ去った夏の音、ミツバチや貝の歌。女の子の父はどんな人かはわからないが、風景のなかに存在感だけ表している。
2番も女の子が登場する。今度は赤いマフラーだ。一番では、夕焼けがパチパチいっていたが、今度は水面がカチカチと凍っている。山から伸びてきたおテテは、春の気配だ。春に山から風が吹き、神様がやってきて、桜が咲く。毛糸は暑く感じ、季節は、また巡っている。過ぎ去った除夜の鐘や北風小僧の歌が遠くに聞こえる。次は母が登場して、女の子と家族とが季節を巡っている。
これらの景色のどれもが個性的で、なおかつ美しく優れた存在だ。牧歌的な日本の四季の風景が、理想的な世界を表している。
今度もメロディーがついた歌だ。
ひとやすみ
気にしない あの娘にゃ 踏んだりけったり 毎晩さ
お寺の鐘に 目を閉じ トンチをきかせりゃ ちんちんちん
風はビュービュー 雨 ゴーゴー 雷はゴロゴロ I don’t like it
Sunny Boyの言うことにゃ トンチをきかせりゃ ちんちんちん
鐘がゴーンとなりゃ カラスがカー 戦(いくさ)に焼かれて お寺もボー
それでも坊さん 平気な顔して ナムサンダー ツルツル頭に 毛がないね
ひとやすみ おいらにゃ 奴らの話は三級品
暗闇のパラダイス 楽しい トンチをきかせりゃ ちんちんちん
一休さん なになに この橋渡るべからず
どうやって 渡ちゃん トンチをきかせりゃ ちんちんちん
上の餅と 下の餅 どっちが美味しいのかしら
あーこいつぁ 難しい でも トンチをきかせりゃ ちんちんちん
アニメの一休さんをテーマにしている。先輩と歌を作ってみようと言って、先輩がテーマを一休さんにした。Sonny Boy Williamsonというブルースマンの曲調を真似て作ってみた曲だ。「気にしない」と一休さんの決め台詞から始まり、「ひとやすみ」というご芳名の訓読をタイトルにした。2段落目のSunny Boyは、曲調を参考にしたSonny Boy Williamsonとテルテル坊主をかけてみた。4段落目はアニメの中で一休さんが川で野菜を洗いながら歌っている歌詞をそのまま引用している。
https://www.youtube.com/watch?v=Q6yYCtkPR4E (3:00のあたり)
このように詩に憧れているが、まったく知らないし分かっていない僕は、それでも書いている。しかし、いけないことではないだろう。詩を書くのは個人の自由だ。
彼女へのラブレターは、和歌だ。これも気持ちのわるいものかもしれないが、最後に紹介をする。
蝉空の文月晦日八雲立つ日差しまばゆしなが言の葉よ
今は11月なので、過ぎ去った夏の遠い声がするみたいに思い出す。夏の明るい景色のような彼女の言葉を歌っている。
自分が使っている言葉が、自分を作っていると言われる。美しい詩は美しい自分を作ってくれるのだろう。一方で、僕が作ったようなキモイ詩は、キモイ自分を作ってしまう。
言葉が自分を作るとき、その言葉は何によって作られるのだろう。おそらく出来事や人と人との関係から言葉ができると思われる。ということは、自分は出来事や人と人との関係によって作られることになる。毎日を美しい言葉で生きていきたい。毎日を美しい出来事と人との関係でいきていきたい。この切なる思いは、すべての人が持つ思いではないだろうか。
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