カミを見る

 「見える化」。ビジネス書でよく目にする言葉である。やらなければならないタスクや頭の中にある不安など、仕事や人間関係に渡る広い範囲で、問題解決のために使われる方法だ。具体的な作業は簡単だ。文字通り目に見えるように書き出す。そのことで驚くほど仕事が早く片付いたり、心が軽くなる。これは、人間の脳は一度に複数のことができないことに関係している。つまり、しなければならない仕事を思い出すという行為と、それらを順序良く並べて実行に移してゆく行為とを、脳は同時にこなすことができない。だから、まず思い出す行為だけに集中して、それらを覚えておくという行為を紙に任せ、次はそれらを順序良く並び替える行為に集中する。そうすることによって、漏れがなく、また効率よく仕事をこなすことができるのである。また人間関係においても、一度紙に書き出すことによって、客観的に自分の状況を把握することで、感情的にならずに、理性的に人間関係を築いていくことができるのだ。この「見える化」は簡単でありながら、その威力は凄まじい。人間の文明は「見える化」によって発展してきたと言っても過言ではない。絵を描いたり、文字に表すことによって、他者に伝えて効率を上げたり、世代を超えての伝承なども可能になった。比較などの行為もしやすく、学問の発展には欠かせない。「見える化」したものを見る、「紙」を見ることによって、文明は発展してきたのである。

 私の仕事は神主で、祭祀(さいし)、つまり神を祀ることが、その務めである。神を祀るというこの行為は、目には見えない神々を「見える化」することではないかと思った。つまり「神」を見るのである。

 祭祀とは「まつり」のことで、鎌田純一著「神道概説」によると、その語源は「まつる」「まつらふ」「まつろひまつる」という語であり、「上位のものに対して奉仕する」の意味である。語源的にさらに見ると「まつ」という語があり、これは「見えないものが見える場、接し得る場へ来るのを迎える」の意味であり、「その来訪者を好意を持って迎える」の意味も含んでいるそうだ。よって「まつり」すなわち祭祀とは、目に見えないもの、つまり神をまって「見える化」し、好意をもって迎えることである。

 実際に現在の祭祀において行われていることを紹介してみよう。地鎮祭などの、神社以外での祭祀を紹介すると、祭祀のはじめに修祓(しゅばつ)というお祓いをする。この時点では神はまだ現れていない。祓戸大神(はらえどのおおかみ)という清めをしてくださる神をお招きして、その祭祀の場やお供えもの、参列者を祓い清める。ここでは祓戸大神は祭祀を手伝ってくださる神であり、祭祀の対象となる神ではないので、神に数えないとする。そして、用意した神籬(ひもろぎ)という榊(さかき)の枝に神をお招きするのだ。この神籬という神に宿っていただく枝は、まず第一の「見える化」であろうか。そして神饌(しんせん)という神のお食事を供える。実際には目に見えない存在に、食事を供えるのだから、これは第二の「見える化」である。次に祝詞(のりと)を奏上する。お招きした神に言葉を申し述べるのである。地鎮祭なら、工事の安全や施主のこれからの幸せを祈願する。こちらは第3の「見える化」である。その次には、玉串拝礼(たまぐしはいれい)という儀式で神をお参りする。玉串という神籬よりも小さい榊の枝に、紙垂(しで)という紙をつけた物を神前に供えて、拝礼する。第4の「見える化」である。そして供えた神饌を徹する、第6。最後にお招きした神にお帰りいただく、第7。

 このように数えてみると、7つの「見える化」がある。実際には神主の存在や祭祀のための準備の全てが、神の「見える化」と考えてもいいかもしれない。神がいなければ、祭祀をしなければ、それらは必要ないものであるから。

 では、目に見えない神とは一体どんな存在か?日本の神がどんな存在であるかと聞かれた時、私は次のように説明する。自然、先祖、文化、これらを総称した存在です、と。

自然

私たちはまさに自然の中にいて、お米を始めとする様々な恩恵を受けている。

先祖

身近なところではお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、5代さかのぼると63人。さらに2代さかのぼると255人の先祖がいらっしゃって、そのどなたが欠けても、自分のところまで命は届かなかった。

文化

衣服や建物、そしてこの文章を書く時のPCやソフト、そして言語。そのどれもが、先人たちの努力や工夫が現在に伝わった物だ。

 はっきりと目に見える物ではないけれども、必ず存在しているもので、現在の私たちを足元から支えている、そんな存在が日本の神です、と伝える。これは、狩猟採集時代や、共同生活での農耕、また分業制へと社会が発展していく中で、崇敬の対象が広がった歴史から説明できる。また、神のお名前などからも、それぞれの時代の影響が読み取れる。

 こういった「おかげ」を被っている存在、神を忘れないようにするために、またその働きをしっかりと捉えて、さらにお力をいただくために、先人たちは神々を「見える化」したのかもしれない。また、そうしないと神が、自分たちのもとから去ってしまうことを恐れたのかもしれない。

 歴史を紐解いてみると、神の「見える化」を推奨しているものがある。貞永元年、1232年。北条泰時が御成敗式目という武家政権のための法令を出した。その第1条は、「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」とあり、「神は人の敬ひによって威を増し、人は神の徳によって運を添ふ。」と述べられている。これは「神は敬うことによって霊験(れいげん)があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。」というような意味である。

 祭りを盛んに行う、つまり神を盛んに「見える化」することによって、人々は幸せになる。これは神のご利益と表現されるだろうし、ここでは自然、先祖、文化を「見える化」することにより、その力を最大限に引き出すと解釈したい。

 また、「見える化」には、感情を生み出す力もあると思う。スティーブン・R・コヴィー著「7つの習慣」に、「愛は動詞である」という一節がある。妻を愛する気持ちがなくなった、ある夫に対して著者が言った言葉だ。「愛は動詞なのです。愛という気持ちは、愛するという行動から得られる果実です。」つまり「愛する行動」をとることによって、妻を「愛してるという気持ち」が得られる。一般には、「愛という気持ち」があるから、相手に優しくしたり、奉仕したりするという「愛する行動」をとると考えられているが、その逆で、優しくしたり奉仕するという「愛する行動」をとるから、「愛という気持ち」を持つということだ。

 このことは信仰についても言えるのではないだろうか。「信仰とは動詞なのです。神を敬うという気持ちは、神にお参りをするという行動から得られる果実です」。こんな風に言い換えることができる。先ほどの御成敗式目と同様に、神を敬えば敬うほど、人々は幸せになる。つまり、神を「見える化」すればするほど、自然、先祖、文化の力を得ることができる。そして、行動すればするほど、敬う気持ちも得ることができる。こんなふうに解釈することができるのではないだろうか。

 日本には八百万(やおよろづ)の神がいるとされている。八百万とは、「数がきわめて多い、無数の」という意味である。日本には無数に神がいる、すなわち、あらゆるものに神が宿っているのだ。そのたくさんの神々のご利益によって、私たちは豊かな生活を送ることができている。

 私は毎日モーニングページというものを書いている。朝起きた時に頭の中にあることをなんでも書き記すのだ。あわせて、かなりの「メモ魔」でもある。忘れないように書きとめることはもちろん、考えるためにも書き記して、「見える化」をして、物事に対処している。私は何かいいことがあったり、素晴らしいものに接したときには、これらのメモに、その時お力を貸してくれたであろう神の存在を書き記す。例えば、美味しいものを食べた時には、「食べ物の神」を、いい文章に出会った時には「文章の神」を、いい人と出会えた時には、「良縁の神」を、その存在を書き記して感謝する。特に難しい名前をつける必要はない。思ったままのお名前をつければいい。日本には八百万の神がいらっしゃる、つまり、あらゆるものが神なのだ。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人である版画家の棟方志功氏は、その著書「わだばゴッホになる」の中で、「わたくしは、お手本のことを神様というクセがありました」と、記している。感銘を受けた作品を「神様」と呼んで、敬い、そして自らの作品の糧にしていたのであろう。これと同じように、素晴らしいものに対して敬意を表するために「神様」と呼んだり、文字にするのだ。要するに、「おかげ」を文字にして「見える化」するのだ。そして、紙の上で感謝を表したり、実際に神社で手を合わせるという行動をすることで、神々への気持ちを高めている。「紙」の上に「神」の名前を見ることにより、私は幸せになるのだ。

 仕事の効率を上げ、ストレスを軽減する「見える化」。これには、我々を足元から支えている神々の存在を意識させ、その力を最大限に引き出し、幸せにする力がある。そして祭祀という行動をとることによって、豊かな感情、情緒を生み出す。そんな力もあるのではないだろうか。「紙」の上に現れた「神」。これらを見ることが、人を動かすのだ。

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