新緑の中で

 新緑が眩しい4月の終わり、午後の眠気を感じながら、少しソワソワしていた。風はなく穏やかな日だ。参拝者はまばらで、仕事はそんなに忙しくない。ゆっくりとした時間が流れているが、私は気になっていた。午後の1時から地元の高校1年生が300名近くやってくる。その彼らの前で話をしなくてはならないのだ、神社と地域の歴史についてを。人前で話すことには慣れている、というのは職業柄、挨拶することが多いからだ。お宮参り、初詣、地鎮祭、結婚式など、多くの機会で話をする。だからソワソワするのは珍しいことである。自分ではその理由がわかるような、わからないような、まだつかみどころのない考えとして、頭の中に浮かんでいた。

 「2班に分けて30分ずつ話をしてください。」担当の先生から言われる。6クラスある1年生を2つにわけると、160人と120人という人数になる。いつも話すよりは多い人数だが、それがソワソワの原因ではなかった。

 私の職業は神職である。一般には神主と言った方がわかりやすいかもしれない。神社にいて、維持管理やお祓いなどをする人である。その私が高校生のために用意した話は、1、神様とはどんな存在か、2、神社とはどんなところか、3、私が奉職している神社はどんな神社か、の3つであった。1は、神様を、「自然」「ご先祖様」「文化」これら3つの総称とし、2は、神社が米作りと深い関係があり、祈念祭(きねんさい)、新嘗祭(にいなめさい)、がとても大事なお祭りであること。また米作りはみんなで協力しなければならないことから、神社は地域共同体の中心地であること。3は、奉職している神社が春日の神を祀る神社であり、春日の神とは、「4柱の神」「鹿がお使いの動物」「藤原氏の氏神」が特徴であること、そんな話だ。セオリー通り、3つの大きな話をそれぞれ3つほどの要素に分けながら、話を組み立てたのであった。

 前の晩に毎朝書いているモーニングページというノートを読み返していたら、そこに「ご先祖さまゲーム」というものを見つけた。私が考えたもので、ゲームと言っているが、勝ち負けを競うものではない。

 まず先頭に子供役として1人が立ち、その後ろに両親役として2人が立つ。次に両親それぞれの後ろに祖父母役として4人が立つ。その次は8人、その次は16人。つまりは実際に人を使って家系図を表すようなものである。こうすることによって、自分の命がどれだけたくさんの繋がりから生まれているかを実感してもらおうとするものだ。この「ご先祖さまゲーム」を2年前に思いついて、モーニングページに書き記していたのだ。それを偶然、高校生に話をする前日の晩に読み返したのである。これは良いチャンスだと思った。5代遡ると62人のご先祖様がいらっしゃる。これを実際の人間で並ぶとなると、場所と人間が必要であるが、明日はそのどちらもが揃う日であり、こんなチャンスはそうそうない。このゲームを実際にやってみて、生徒がどんな感想を持つのかにも興味があった。これは是非やってみようと思ったのである。

 がしかし、こんなゲームをやったこともないし、見たこともない。やってみて、何も反応がなかったり、つまらない顔をされたらどうしようという不安がよぎった。

 これが私のソワソワの原因の1つ目である。思いついた新しいことを挑戦するかどうかをギリギリまで迷っていたのである。結果はやらなかった。というか、やれなかったのである。時間の都合で話だけをすることになったのだ。やらないことが決まって少しホッとしたが、何か惜しいことをしたような気分でもある。失敗しても得るものは多かったはずだ。今度またこのような機会があれば、必ず挑戦したい。

 もう一つの原因は、私が今考えている「できること」を伝えるかどうかだ。これを書いている令和4年の5月は、ロシアによるウクライナへの侵攻の最中である。毎日これについてのニュースを読み聞きしている。メディア上では、さまざまな意見が飛び交い、こちらも現場さながらの戦場となっている。間接的にしか関わりのない私たちが、平和のためにできることはなんであろうかと考えた結果たどり着いたのは、私たちの身の回りを戦場にしないということだ。身の回りの人たちに親切にし、認め合い、協力しあって、共に幸せになること。争いのためではなく、共存のために知恵を絞る。それを身近な、家族、友達とするべきだ、そんなことを考えている。このことを他の世界宗教と比べると、具体的な信仰といわれる神道のあり方と絡めて、争いがある現在に今私たちがするべきことは、具体的に家族や友達を大切にすることだと、生徒たちに伝えたかったのだ。

 結局、こちらも話さなかった。神道が他の宗教と比べると具体的な信仰であることを説明するには十分な時間がなかったことと、政治的な事柄を取り上げることに抵抗を感じたのでやめたのである。あまり伝える内容が多すぎると、結局何も伝わらないということがある。今回は神様がどのような存在であるかと、神社のことを覚えてもらうのを主眼としたのである。また政治的なことは、生徒たちよりも教職員の方々の目を気にした。あまり主張がすぎると角が立ちそうだし、神社としての見解ではなく、私個人の意見なので、差し控えたのだ。

 つまりは、思いついた「ご先祖さまゲーム」も私が考える現在の状況にあって我々に「できること」も話さなかった。勇気がなかったこともあるし、状況がそれを許さなかったこともある。正直、悔しさが残っている。このことはよく心に留めて、次に活かせるようにしたい。

 そんな私の心の状態とは対照的に、神社にやってきた生徒たちは、高校生とはいえども、4月に入学したばかりの1年生なので、まだ中学生の雰囲気が残っており、ちょうど新緑の若い葉のように瑞々しい印象だった。

 生徒たちに話をする前日の晩に見返したモーニングページ。これは、朝起きて一番に頭の中にあるものを書き出すというものだ。これを始めてもう2年の月日がたった。その影響は、お酒をやめたり、仕事での成果などがあげられる。心が落ち着くので、いろんなことに集中できるのだ。

 最近読んだノート術の本、安田修著の「自分を変えるノート術」に「1人合宿」というものが紹介されていた。企業で経営について集中的に議論するために、会社を離れて、たとえば温泉旅館などで、中身の濃い打ち合わせをするために、合宿をすることがある。これを1人ですることが「1人合宿」だ。つまり、日常を離れて自分ととことん向き合うのである。その道具として、ノート1冊とペンを用意する。そしてあらかじめ決めておいたテーマに沿って、時には外れて、書きまくるのだ。

 書きまくるという点で、モーニングページと似ている。朝起きた時だけでなく、1日を通してノートに書くことが多くなってきたので、一度、徹底的に書き記してみたいと思っていた。だから、この「1人合宿」を知った時に、やってみたくなったのだ。

 朝9時から夕方5時までの8時間、途中休憩をとりながら書き続けてみた。天気のいい気持ち良い日だったが、近くのショッピングモールのフードコートに籠ったのである。程よい騒音があることと、行き詰まったら立ち歩いて席を変えることもできるので、読書などをするときには、よくフードコートを使う。一応書くテーマについては事前に書き出しておいたが、9時に始めた時の最初のテーマは決めずに自由にしておいた。とにかく筆に任せて書き出していったのだ。そうすると結局事前に用意していたテーマと同じものを書いていた。気になっていることはそんなに多くなかったのだ。植物、音楽、哲学、仕事、交友関係など、自分の興味のあること、気になることが出てきた。

 常日頃から不安に思っていたのは、興味の対象がバラバラであったことである。仕事では日本の古い神事について、日常では西洋の哲学、また若い頃から音楽をしていたり、彼女とは植物を栽培したりなど、人生に一貫性がない、そんなふうに感じていた。だからどこかでそれぞれに力を入れすぎないようにしているところがあったのである。たとえば、植物にお金や時間をかけすぎると、家族との時間がなくなるとか、音楽に力を入れすぎると哲学が勉強できない、そんなふうに感じていた。がしかし、実際に書き出してみて、それぞれの関係を整理したり、大きな視点から見てそれぞれの役割を考えたら、不安は解消された。全ては無駄ではなく、たとえ一つのことに力を入れすぎたとしても、それを他のことへのいい影響とすることができるとわかったのである。

 植物や音楽で得た体験や知識は、哲学的に抽象化することができる。たとえば植物の世界で、野菜と果物の明確な区別はない。国によってさまざまなのである。日本では「1年生草本類から収穫される果実」は野菜であり、「多年生作物など樹木から収穫される果実」は果物とされている。つまりは草から採れるものは野菜であり、木から採れるものは果物である。しかし、トマトやナスは一般的には草から採れる果実であるが、温室の中で育てるなど、栽培方法が変われば巨大な木になるそうで、木から採れるとなると果物になってしまう。これは野菜や果物という区別は人間の都合で作ったものであり、植物の方ではそんなことはお構いなしに、ただ生き残るために環境に適応しながら進化してきたため、人間の区別の中間に当たるようなものや、区別の両方をまたぐようなものがあっても、不思議ではないということである。つまりは「現実は言葉よりも複雑」なのである。このように抽象化されたものは、神職として社頭での講話に使うことができる。たとえば神様という存在を言葉でどれほど語っても、その実在にはたどり着けないことなどは、「現実は言葉よりも複雑であること」の具体例である。また家族や友人などの人間関係も随筆や講話に応用できる。そんな可能性を見つけることができて、興味の対象がバラバラすぎるのではないかという日々の不安や悩みがなくなったのを感じている。頭の中にあることを書き出すのは、本当に気持ちがよかったのだ。

 次に、将来のヴィジョンを書き出してみた。まず年号を書き記し、それぞれの年に自分の年齢や家族の年齢、たとえば子供が高校に入学するなどを書き出す。2年後には奉職している神社の創建1240年の節目の年を迎えるので、そんな仕事の予定も書き記してみる。そうすると、うっすらと将来が見えてきた。今から準備すると、後々もっと楽しくできるのではないかと、アイデアも湧いてきたのである。これは「妄想」を「暴走」させる楽しい時間であった。

 次は、現在に目を向けてみた。やらなければならないことや不満などを書き出していったのである。そうするとその原因や、効率的に解決する方法なども思いついた。仕事の課題や注意点、気づいていなかった点などがよくわかったのである。

 この辺りで書くことがなくなってきた。もう頭の中はスッカラカンであった。しかし、まだ時間はお昼を過ぎた頃で、予定ではあと4時間ほど書かなければならなかった。そこで用意しておいたフレームワークを使ってみたのである。「5つのなぜ」というものだ。適当すぎて申し訳ないが、どこかの本で誰かが勧めていたフレームワークである。ある対象に対して、「なぜ」を5つ投げかける。そして無理矢理でもいいので答えを書くのだ。たとえば、植物に対しては、「なぜ植物が好きなのか?」と問いを投げかけてみた。そうしたら、「水やりなど育てるのが楽しいから」「見た目が美しいから」「ゆったりとした成長」「奥が深いから」「植物が好きな人も面白いから」などの5つの答えが出てきた。このようなことをさまざまな対象に対してやってみたのである。仕事や趣味、そして周りにいる人々に対してもやってみた。「なぜ好きか?」「なぜ面白いのか?」「なぜ嫌なのか?」こんなふうに問いを少しアレンジしても良い。今回は5つの答えを出したが、答えに対して問いを繰り返してもいい。たとえば「なぜ植物が好きなのか?」の答えである「水やりなど育てるのが楽しいから」に対して、もう一度「なぜ水やりなど育てるのが楽しいのか?」と問い、深く価値観を掘り下げていくこともできる。ちなみにこれについての答えは、「植物と対話しているように感じるから」である。とにかく単純に面白い作業であったと同時に、仕事への姿勢を考え直したり、また趣味への取り組み方やそれぞれとの関係を整理できた。人に対しては、古い思い出を思い出したり、また連絡する機会にもなった。

 そうこうしているうちに、5時になり、1人合宿は終了したのである。外はまだ明るく、夕方の風が気持ちよかった。心地のいい疲れとともに、空っぽで軽くなった頭をあげ、籠りきりでこわばった体を伸ばしながら、家に帰った。せっかくの休みに何をしているのだという人もあるかもしれないが、休みでないとこんなことはできず、そしてこの「1人合宿」が今後の日々の仕事やプライベートを良くしてくれると考えると、大変有意義な時間であった。

 その後、変化があったかといえば、2つの変化があった。1つ目は、ベランダに日除けのためのフレームを作ったことだ。これは植物を育てるためのものである。私の家には120を超える植物がある。令和3年の4月に初めて黒松の盆栽を買ってから、1年ほどの期間にこんなにも増えた。120もあると、中には直射日光が好きな植物もいれば、苦手な植物もある。またぶら下げて栽培をする植物もあるので、それらを引っ掛けるためにも、思い切ってベランダに日除け用のフレームを作ったのである。もっと安く作ることもできたかもしれないが、比較的丈夫なもので作り、費用もかけた。以前は、植物を育てるためにやりすぎかな、と感じていたが、総合的に考えると自分の人生に良い影響を与えるとわかったので、投資したのである。これによって、夏の厳しい暑さや日光を防いで、よりよく育てることができるし、より多くの植物を置くこともできる。そしてそのことから、深く学ぶことができるのではないかと思っている。深く学べるかは、まだ不確定だが、思い切った行動を取り、現状を変えることができたのは、自分としては良いことだった。

 もう1つは、習字を習い始めたことだ。仕事では毎日毛筆で字を書く。それなりに書けるようにはなったが、最近壁にぶつかっていた。またモーニングページなど、ノートを書くことが増えてからは、丁寧に書くことが少なくなって、字が汚くなっていたのである。字を美しくすることは神職として、プラスになる。すぐにその効果が出るわけではないが、5年、10年後を考えた時、今始めるべきだと決断したのである。

 人によっては、ただ思い切ってお金を浪費しただけだと思うかもしれないが、そうではない。深く考え、自分の価値観を見つめ直し、長期的に目標を設定した上での行動なので、今後の発展に必ず貢献することだろう。冒頭の高校生に対して伝えられなかったこともそうだが、仮にもし失敗したとしても、もっと深く価値観や現実を見つめ直す機会となる。

 季節は新緑の春から初夏へと向かっている。心の中のこれでいいのかなという不安も晴れてきた。ノートに書き出して整理された考えが、芽吹き出したのである。これからどんな実りをもたらしてくれるのか、自分のことながら期待している。

令和4年5月25日

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