畑に降る雨

 私の職場の上司は畑を持っている。宮司の職を退いて名誉宮司となってから、それまで人に貸していた畑の一部を自ら耕すようになった。きゅうり、トマト、大根、ほうれん草、さまざまな野菜を育てている。収穫したものを頂くこともある。形は売っているものとは違い面白い格好をしているが、味は新鮮で素朴な美味しさがある。
 とあるきっかけで、最近私はその畑のほんの一部、1畝を借りることになった。以前から植物を育てるのが好きであった。観葉植物にはじまり、植物好きの彼女と付き合ったことをきっかけに、今では190鉢もの植物たちが、私の狭いベランダでひしめき合っている。種類はさまざまで、盆栽やサボテン、蘭や山野草がある。そのどれもが観賞用であるが、畑を借りたのは、名誉宮司のように野菜を育てようと思ったからだ。
 私の家に植物が増えたのは、この1年半ほどの間である。その間さまざまな種類の植物に夢中になってきた。その時々で好きな植物の種類は移り変わる。また元に戻って同じ種類のものを好きになることもある。そのような嗜好の循環の中に野菜が仲間入りしそうだ。
 畑を借りたのはつい最近で、実際にはまだ育てていない。私が借りている一畝は、長く手入れがされていなかったようで、雑草に覆われていた。まずはこの雑草を取り除き、固くなってしまった土をよく耕さねばならない。雑草を抜くのは、仕事でよくする作業なので難なく終わると思っていた。がしかし、神社の境内に生えている雑草とは大きさや根の張り方が違っていて、土を深く掘り起こさなければ取り除くことはできない。これらを素手で取り除くには労力と時間がかかりすぎるので、ホームセンターに道具を探しに行ったのだ。
 名誉宮司が持っていた道具に手頃なものがあった。片手鍬の一種で「イカ型レーキ」というものだ。木の柄に、片方は鍬の刃がついていて、反対側にはフォークのように分かれた刃がついている。2つの刃をひとかたまりとして見ると、鍬の刃が頭、フォークのような刃が足に見えて、イカのようなのである。フォークのような刃のことをレーキというので「イカ型レーキ」である。畑で使うものに「イカ」という海の生物の名前がついているのが可愛らしい。これを買って、危なくないように2つの刃に段ボールで作ったカバーをかぶせ、原付バイクのメットインに入らなかったので、紙袋に入れて、ヘルメットをぶら下げるフックにブラブラさせながら畑に向かったのだ。
 初めて畑に立った。別になんてこともない。なんてこともないが、こうして思い出している今、畑に行きたくなる。あえて言葉にするなら「安心」だろうか。懐かしいような、でも決してよく知った場所ではない。優しくもあり、厳しくもある自然の性質がそこにはあるのかもしれない。
 まずは、レーキの方で雑草をガシガシ掘り返してみた。なかなか深く刺さらないし、雑草は引っ張っても抜けない。鍬の方で根を切るようにして耕してみる。雑草は取り除くことはできたが、よくみると根がたくさん残っている。悪戦苦闘である。30センチほどの幅を耕したら、息が切れて腕も痛い。もう帰りたくなったのだ。
 名誉宮司にも手伝ってもらって、借りている畝の雑草は1週間ほどで全部取り除くことができた。名誉宮司は80歳を超えておられるが、強い足腰をしている。見習うべきところだ。
 次は石灰を撒かなくてはならない。土は雨などで徐々に酸性になっていく。大半の植物は弱酸性から中性に適しているから、石灰を混ぜて酸度を調整するのだ。だから石灰を探しにまたホームセンターへ行った。イカ型レーキを買ったホームセンターだが、植物も売っている。観葉植物やサボテン、多肉なども。気になったが、ここで植物を見ていたら時間がいくらあっても足りないので、そのコーナーを横目に土の売り場へと進む。ところが何回見回っても石灰が売っていなかったので、石灰入りの肥料というものを買った。これを撒いて耕すといいらしい。丁寧に石灰と肥料を分けて撒きたい気持ちもあったが、同時にまくことができるので一石二鳥と考えた。
 仕事で時間がなかなか作れなかったが、先日、ようやく石灰入り肥料を撒くことができた。肥料を撒いた後は土を平らにせず、小山を作ったまま1週間ほど放っておくそうだ。たぶん畑の土と肥料が馴染むのであろう。
 畑に立ちながら、「田園都市国家」という言葉を思い出した。1970年代後半に首相を務めた大平正芳のブレーンだった香山健一という人の言葉だ。
 「21世紀への日本の国家目標は、軍事大国でも海外膨張でもなく、自然と人工の調和、あたたかい人間関係、豊かで自由で多様な文化を持つ日本型田園都市国家だ。」
 左翼的思想の持ち主だった香山は、後に保守の論客として活躍したという。革命や伝統の破壊、世界統一政府などの発想から、どのようにして前述の言葉のような、国内の調和を目指すこととなったかは知らない。もともとこの「田園都市」という概念は、イギリスのエベネザー・ハワードという人のものだ。「明日の田園都市」という本で紹介されている。19世紀終わり頃のロンドンの街の環境の悪化を憂い、都市と田舎の良いところをひとまとめにしたような「田園都市」を構想した。
 街は円形に広がり、中心には公園や市役所など人々が集まりやすい施設がある。大通りが6本中心から外周部まで伸びており、街のはずれからも中心にアクセスがしやすくなっている。外周部には農地や工場などが広がり、そこで生産されたものは街の中心部で売られる。運搬にかかる費用や時間がかからないために地産地消、その土地でできたものをその土地の人々が消費する循環型の経済が成立する。豊かな者や貧しい者など、多様な家庭のための賃貸住宅があり、その賃貸は田園都市を運営する土地会社によって行われる。この資金を元手に、住民たち自身が公共施設の整備をすすめるなど、住民によるコミュニティ形成をめざしたところが重要な点であった。
 なかばユートピアのような都市計画だが、現在に至るまで日本も含め世界中に影響を与えたようだ。だが彼のアイデアから生まれた街は、現在では田園都市の美名の下、単なるベッドタウンに終わり、職場と住宅が近接し自律した都市や、住民によるコミュニティを実現しようとした例、実現した例は多くないそうだ。
 畑に立った時に、この「田園都市」という理想郷を表した言葉を思い出したが、果たしてその実態はなんなのだろうか。
 畑を借りて野菜を作り、自給自足のような人間らしい生活を送りながら、自然と共存をする。このようなキャッチフレーズを耳にすることは多くなった。香山健一やエベネザー・ハワードのことはよく知らないが、この理想的な「田園都市」の生活を思わせる言葉は、今やものを売るためのセールストークに使われているのではないだろうか。
 畑は借りてまだ1、2週間だが、田舎の神社に勤めてからは長い。日々の落ち葉から台風の倒木。私にとって自然とは守るべきものというより戦う対象だ。気を抜いていると長年にわたって自分達が築き上げてきたものが、あっという間に崩れ去る。「地球にやさしい」と言われても、私が財布の紐を緩めることはない。
 自然との共存を実現するための持続可能な生活。とても聞こえのいい言葉だが、そこには全てをコントロールしたい傲慢な人間の欲求が隠れているような気がする。野菜に例えるなら、虫食いのない形の綺麗な野菜、つまり商品になるということか。
 この根源にはフランスの合理主義があるのだろう。デカルトやルソーといった思想家に代表され、全てを個から始める。神道学者の谷省吾は、基本的人権という西洋が生み出した思想には弱点があるとしている。「生命の尊重とつながるものでありながら、その生命を孤立したものとしてしかとらへてゐない。いのちが孤立してゐる、といふ点であります。」
 我々のこの命は両親から頂いたものであり、その生活は自然や地域、国家、そして世界に支えられている。両親もその親から命をいただいたこと、そして彼らもその時代の地域や国家に支えられていたことを考えると、我々の命は果たして我々のものということができるのだろうか。大きな命のほんの一部にすぎず、個を始めとするには現実とかけ離れているように思う。
 個を始めとして「持続可能な」生活を考えるとき、周囲のものは全て個を守るためにあるものだ。個は周囲のものがなければ存在することはできない、このことに気づいたのはいいが、個から初めているため、個のための周囲として扱う。それは傲慢であり、倫理に背くものではないだろうか。
 倫理とは、「人の守り行うべき道であり、善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」とある。私は倫理を煎じ詰めると「上下関係」に行き着くのではないかと思う。その上下関係とは「上を敬い、下を慈しむ」という関係だ。それが私たちが守り行うべき道であり、善悪・正邪の判断の基準にはならないだろうか。
 思いつくままにこの関係の例を挙げると、自然と人間、人間と動物、親と子、神と人間。これらの関係のあるべき姿をそれぞれに調整した時、我々は個から全てを始めることはできない。たとえば、自然を上と仰ぎ、それを敬う。人間は自然の恵みをいただく。慈しまれているのだ。また親を上と仰ぎ敬い、子を下とみて慈しむ。男性が上で女性が下の時、ややもすれば母に甘えるように女性に依存してしまう男性が、女性を守るために強くなる。女性は男性を敬うことによって、直感ではなく歴史に目を向けることができる。これらは例であるので、さまざまな関係があると思うが、上下を作ることによって、その追うべき役割や責任が変わり、それが本来の属性と絡み合って美しい調和や物語を生みだす。
 個をはじめとした場合、すべての個は平等で同質であるという見方になる。その結果、国境はなくなり、家族も崩壊する。これはいささか大袈裟であろうか。大袈裟であってほしい。がしかし、個から初めて全てが等しくなる時、我々はそんな記号のような世界に立つことになるのではないだろうか。
 上下関係という時、封建的な響きを持って嫌がられることが多いが、それは社会に起伏をつけ、物語を生み、心を震わせる。人間らしさの根源であるように感じるのだ。
 今日は雨が降っていた。仕事の帰りに畑に寄ろうと思っていたが、雨が降っているとすることはないのでまっすぐ家帰る。1930年頃チェコスロバキアで人気のあった作家カレル・チャペックは、園芸家でもあり「園芸家12ヶ月」という本を書いている。庭づくりを始めて、その苦労や喜びをユーモアを交えながら語っている。その本の中にこんな一節がある。「(庭づくりを始めると)ものの考え方がすっかり変わってしまう。雨が降ると、庭に雨が降っている、と思う。日がさしても、たださしているのではない、庭にさしているのだ。」私も今日は、私の畑に雨が降っていると感じた。さらには、私はベランダで植物を育てる「ベランダー」でもあるから、今日の雨は、ベランダと畑に降っていたのである。
 畑に立って、理想郷に思いを馳せたが、その理想郷はつながりを一方向からしか見ていない偏ったものだった。全ては平等ではない。雨は世界中に降るが、私の雨は他とは違う。大好きなベランダと畑に降る特別なものなのだ。

令和4年10月10日

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