自分と真理と突き動かす何か

 気温35度を超える日が続いた暑い夏が終わったが、10月に入っても真夏日があったりと、今年の秋も暑かった。いつまでも気温は下がらずに日差しも強く、その影響で今年のモミジの紅葉はどうなるのだろうと心配していたが、現在綺麗に色づいて神社に訪れる人々を喜ばせてくれている。私の仕事は秋から正月、節分が終わる頃までがとても忙しい。仕事が終わって遅くに帰宅しても、明日の仕事が気になったり、また家の用事もしなくてはならなかったりと、文字通り朝から晩まで休むことができていない。そんな慌ただしい中でも頑張って読書はするようにしている。いやむしろ読書せずにはいられないのだ。忙しさや慌ただしさの中に飲まれないようにするためには、本を読むのが一番いい。現実逃避をすることもできるし、高い視点から日々を鳥瞰することもできる。視点を変えることで、ただただ時間に追われているだけではなく、現在のこの努力を将来の大きな目標へと繋げて捉えることができるのだ。
 学生の頃は哲学科にいたので、現在でも哲学書を読むことがある。最近の読書のブームもほとんどが哲学の関係のものだ。哲学書といえば難解なものが多く気が休まらないのではないかと思うかもしれないが、ところがそうではない。先人の思考の一部を垣間見ることで、なんだか勇気をもらうような気分がするからだ。
 哲学科に入ったのは、かっこいいとか、頭が良さそうにみられるんじゃないかという大した理由ではなかった。だから入ってからが大変で、ほとんどが理解できずに学生時代を終えてしまった。そのほか特に勉強したものもなかったので、読む本は哲学関係のものになっていたが、大して面白いと思えなかった期間が長くあった。でも年の功で最近ようやく面白いと思いながら読むことができている。新しいものの見方や先人たちの工夫、文章の難解さなどもクセになってきた。
 最近読んだものの中でもプラトンの対話篇は興味深く、読む者に変化を与える書物だと思う。読んだ後には、こちらが変わらざるを得ない何かを植え付けてゆくような気がするのだ。知識として頭に蓄積するというよりは、経験として体や心に変化をもたらす。それは対話という形式が関係しているのだろう、ただ事実を提示されるのではなく、日常生活の喜怒哀楽のように自分の中で何かが湧き起こってくるのを感じるのだ。
 一方、知っている哲学者が増えてきたので、哲学史を読むことも楽しくなってきた。というのは自分の知っている哲学者やその概念が、一般にどのような位置にあってどう評価されているかを知ることは、卒業アルバムの中に自分の顔を見つけるような気分になるからだ。プラトンが評価されていると、まるで自分が褒められたような気になって鼻を高くするし、批判をされていると、自分がけなされたような気になって落ち込むのである。私は自分のことが比較的好きな方なので、卒業アルバムの例えが特別によく当てはまるのかもしれない。しかし卒業アルバムの自分を見てどう思うかは人それぞれだが、つい自分を探してしまうことは、誰でもすることだろうと思う。多くの中から自分や自分の知っているものを探す、これが忙しい日々のささやかな楽しみなのである。本屋に行っても自分の持っている本を探してしまう。はっきり言って本屋で持っている本を見つけることには意味がない。なぜなら本屋は新しい本と出会ったり、欲しい本を買う場所だからだ。家にある本をそこに見つけても何も起こらない、家で読めばいいだけである。しかし、これがなかなか楽しい。一種のエゴサーチなのだろうか。
 エゴサーチとは自分の名前や情報をインターネットで検索する行為を指す。企業がマーケティングとして行うこともあるだろうが、個人がする場合は自己愛的なものが多いのだろう。自分がどのように評価されているかを調べて、誹謗中傷があったら落ち込んでしまうが、少しでも良いことが書いてあったら有頂天になる。広いインターネットの世界の中に自分を探し求めるということが、一つの楽しみなのだろう。私が音楽活動を活発にしていた時はエゴサーチをしたものであった。バンドの評価を冷静に判断する目的もあったが、まさにナルシストとして自分の高評価を探したという一面もあった。自分に酔い、自分を愛する行為だったのだろう。たくさんのものの中から自分と関係のあるものを探し出すのは、当たり前といえば当たり前だが、そこには今言ったようなナルシズム、自己陶酔症、自分自身を愛の対象とする、そんな心理があるのかもしれない。
 「哲学」は明治7年(1874)に西周(にしあまね)が著した「百一新論」の中で、西洋語のフィロソフィの訳語として新たに造語された言葉であるという。その語源であるフィロソフィは、philos(愛)とsophia(知)の2語の結合からなるギリシャ語に由来し、知を愛すること、「愛知」を原義とするものである。ソクラテスは、自らが何も知らないことを知る「無知の知」の自覚を強調し、それをうけたプラトンが事物の真理である「イデア」を「愛知」の目標とした。ここにおいて哲学は「真理への愛」として確立されたのであった。
 このことを考えると、私が哲学史の中にプラトンを見つけて喜んでいることは、「愛知」とは程遠いことであろう。すなわち自分が何も知らないという「無知の知」を自覚せずに、真理を愛する代わりに、自分が知っていると思っていること、つまりは自分を愛の対象としているのである。まさに自己陶酔であり、真理をないがしろにし、エゴサーチをしているだけである。哲学という物事の本質を追い求める学問の本を読んでいるつもりであったが、その中身は、自分に都合の良いものを集めて気分をよくしているだけだったのだ。
 この事実はなかなかの衝撃を私にもたらした。もちろん哲学書を読んでいるだけであって、何かしらの哲学的な体系を構築しているつもりではなかったが、それにしても自分が時間をかけてきた行為が、真理に近づくものではなく、単なる自己愛的な行為であったということを自らが暴いてしまったことは、少しショックであった。いわゆる自分の考えを肯定するための情報ばかりを集める「確証バイアス」や、都合の悪い情報を無視する「正常化バイアス」という真理を歪めるものが働いているとも言える。もちろん自己愛的な行為がそれ自体悪いものではないと思うが、少し勘違いをしてきた自分を恥ずかしく思うのであった。
 もちろん今の状態で「自らの力だけで哲学をしている」という全くの勘違いをしていたわけではない。というよりは、哲学をすること、つまり「知を愛する」ことと、「自己愛的に思想の中に自分を見つける」ということの違いを自覚していなかったということであろう。昔は音楽活動をとおして音楽の中に自分を見つけそれを愛していた。今は自分ではなく哲学に興味を持ち、なんとなく真理を追い求めていると思っていたがそうではなかった。音楽から哲学に形をかえたが、その内容の中にも自分を見つけてそれを愛の対象としている。そのことが分かったのである。
 ではどうするのか。「自己愛的な読書」と「知を愛する読書」を分けて考え、自覚していこうと思っている。「自己愛的な読書」は、今まで通り自分が知っていることと似ていることを集めてみたり、好きな哲学者を追っかければいい。今までとは変わらない。問題は「知を愛する読書」である。別にこの「知を愛する読書」をしなければならないのかと言われればそうでもない気がする。またそもそも「知を愛する読書」が何かもわかっていない。が、なんだか悔しくもある。自分で気がついてしまったからだ、自分の読書がもっと良くなるのではないかということに。「知を愛する読書」がなんであるかはわからないが、「自己愛的な読書」だけではダメな気がする。だからわからないままだが、プラトンの「対話」というものをキーワードにして次の2つのことを試してみている。
 一つ目は、本への書き込みだ。線を引くようなことは今までもしてきている。初めはこれをすると本が汚れてしまうので気が引けていたが、線を引くことで振り返りができたり、内容の整理にもなる。そして今回はさらにこの線を引く行為に加えて、文書を書くようにした。これはSNSで流れてきた確証のない画像を元に思いついたものだが、それはカントのバウムガルテンの著書「形而上学」への書き込みの画像であった。余白いっぱいに細かい文字で書かれており、本文の量に匹敵するほどの書き込みがあった。その画像からは、カントがそれだけ本文をしっかり読み、そして自らも思考していることが想像できたのだった。だから私もやってみたのである。初めは書こうと思うとしっかり読まなければならないと思っていたが、実際は逆であった。書き込むからしっかり読むことができたのである。つまり読むだけでなく言葉を書くことで本文との「対話」になって、身を乗り出すかのように、より近くに内容を感じることができるのであった。このようにすることで、好きな文書を読んで楽しむだけでなく、そこから一歩進んで批判したり、新たな発想を加えてみたりすることができるのではないかと思う。そしてその先には「自己愛的な読書」とは違う、「知を愛する読書」に少し近づいた読書をすることができるのではないかと思ったのである。
 2つ目は、友人だ。自己との対話ではやはり限界がある。だからこういった哲学について対話をしてくれる友人を探したのだ。いざ探すとなると思い当たる人は少なく、その中でもこの人ならと思える人は一人しかいなかった。同じ神主をしている友人だ。彼と対話することによって思考を深めていこうと思った。早速連絡をとった。もちろん哲学の対話をしようという直接的な言い方では嫌がられると思ったので、相手の近況を聞きながら、それと私の興味との接点を探して、おすすめの本を教えてもらった。接点はすぐに見つかった。私は西洋と東洋、特に日本の思想を比較して発展させたいと思っている。一方彼は吉田神道に興味があるとのことだった。吉田神道は仏教や道教、陰陽道の影響があるものだが、立派な日本の思想、哲学、宗教である。私と彼の興味は重なっているのだった。教えてもらった本は、根本的に吉田神道への影響を感じるという「易経」であった。四書五経のうちの一つで、占いの本であると同時に、この世の在り方が語られている哲学書でもある。昨日の話なのでまだまだこれからであるが、どんな対話となるのだろうか、楽しみである。他者との対話をすることで、「自分」ではなく、対話されている内容、すなわち「知」を愛の対象とすることができるのではないかと考えたのであった。
 ただ闇雲に気になる本を読んでいたが、それは自分に似たもの、自分を擁護するものだけを集めているのではないかと思った。そんなことをしながら、「知を愛する」という意味の哲学に興味があるとは恥ずかしくて言えなくなってきたのだ。もし真実が自分に都合の悪いものであった時、私はそれを直視できるだろうか。そんなことを考えるようになったのもプラトンの対話篇が植え付けていった「変わらざるを得ない何か」のせいなのかもしれない。
 そろそろ紅葉は終わりだが、明日も結婚式やお祓いなど神社での仕事は忙しい。その忙しい最中に私は書かずにはいられなくなっている、自分の中に湧き起こる何かによって。ふでのまにまに突き動かされているのだ。

令和5年12月2日

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