奥行きのある世界で

 スタンフォード大学心理学教授のキャロル・S・ドゥエック博士の著書「Mindset」には、2つの心構えが紹介されている。「fixed mindset(硬直マインドセット)」と「growth mindset(しなやかマインドセット)」だ。一つ目の「硬直マインドセット」は、文字通り固まってしまった心構えで、個人の知能や能力は変化しないものであり、優秀な人は努力しなくても難題を解決できると考え、優秀でない人はいくら努力しても無駄だと考える心構えのことを言う。一方、2つ目の「しなやかマインドセット」は、知能は努力によって変化するものと考えており、難題を解決することは、適切な努力があれば可能だと考えるものをいう。

 「硬直マインドセット」を持った人は、自己を限定して認識しているために、自分がどのようであるかということに関心を持つ傾向があり、人の目を過剰に気にするそうだ。反対に、「しなやかマインドセット」を持った人は、自分は努力次第でどのようにでも変化すると認識しているので、自分の努力の量や質に関心を持つ傾向がある。

 これと類似したものを最近読んだ本の中に見つけた。ヒューストン大学ソーシャルワーク大学院の研究者であるブレネー・ブラウン著の「本当の勇気は「弱さ」を認めること/Daring Greatly」(以下「本当の勇気」)という本だ。この中では、「弱さ」を認めることにより、人は逆に強くなり、創造的に生きていけると述べられている。弱さを認めることができずに感じる苦しさや不安の原因となるものは「恥」であるとし、その「恥」を「罪」と対比させて説明しているので紹介する。例えば、私が友人との待ち合わせに遅刻したとする。その時「私は悪い人間だ」と思った時は「恥」の感覚が心を支配しているという。一方「私は悪いことをした」と思った時は「罪」の感覚が心を支配しているというのだ。似ているようだが少し違うので説明する。「私は悪い人間だ」と思う時、「私」のすることなすこと、全て悪いことのような表現となる。遅刻に限らず「私」がすることは「悪いこと」。なぜなら、「私は悪い人間」だからである。一方「私は悪いことをした」と思う時、私がしたたくさんの行動の中で、遅刻したことは悪いことだ、と言うような表現であり、「私」という人間全体を「悪い」とは認識していない。「遅刻という行為」と「私」という個人の関係が違うのである。前者は遅刻という悪い行為が自己と同一視されており、後者は分離されている。

 これら2つの本の中で紹介されていることは同じことである。「Mindset」の「硬直マインドセット」は、「本当の勇気」の「恥」の感覚であり、「しなやかマインドセット」は「罪」の感覚である。「硬直マインドセット」と「恥」では、ともに自己を変化しない存在と捉えており、悪いことをした場合には自分の全てが悪くなる。「しなやかマインドセット」においては、悪い行為については述べていないが、自己とその行為を分離して考えている点で、「本当の勇気」の「罪」の感覚とそれらは同一の事柄を表している。つまり、「しなやかマインドセット」では、失敗しても努力の質や量に関心を示し、自己を変えてゆく。これと同じように「罪」の感覚においても、行為と自己を分離して、たとえ「悪いこと」をしたとしても、自分は反省をして、次は「良いこと」をすることができる、と考えるのだ。

 このように、自己を「硬直マインドセット」「恥」の感覚で捉えている場合、成長はしない。そこで止まってしまって、未来はないのである。逆に、「しなやかマインドセット」「罪」の感覚で捉えている場合、自己の行為を客観的に捉えて、分析をし、発展させてゆくことができるのだ。

 この共通点に気づいた時、またある本を思い出した。倉下忠憲著「すべてはノートからはじまる」には、「思う」と「考える」との違いが次のように述べられている。「思う」とは、「無意識の情報処理」であり、「無自覚に起きてしまう知的作用」である。一方、「考える」とは、「意識的な知的作用」であり、「環境から入ってきた情報に反応するのではなく、自分の意思によって知的作用を発生させる対象を選択することだ」と書いてある。つまり、「思う」とは、反応的に事柄に対処することである。例えば、「アホ」と罵られたとき、腹をたてて、感情のままに殴りかかったり、相手を無視したりするような、情動的な行動をとることだ。一方で「考える」とは、刺激に対しての行動の選択肢をいくつかあげて、その中で意識的に最良のものを選ぶことだ。先ほどの例で言えば、「アホ」と罵られたとき、殴りかかるか、もしくは発言した相手の意図を推測し、かまって欲しいだけだと思ったら、「何かあったの?」と質問をして相手の心をなだめるか、という選択肢を状況に応じて選ぶ、ということだ。これとよく似たことは、スティーブン・R・コヴィー著「7つの習慣」の中にも述べられている。「刺激と反応の間には選択の自由がある」、つまり我々人間は、外部からの刺激に対して、即座に反応するのではなく、一旦考えを巡らし、最良の行動を選択することができるということだ。これらの2冊の本では、物事に情動的に「反応する」のではなく、冷静になって意識的に最良の「選択」をすべきであることが述べられている。

 これらが先ほどの「硬直マインドセット=恥」「しなやかマインドセット=罪」とそれぞれ対応する。「硬直マインドセット=恥」では、物事に反応的に行動している。つまり「思う」という「反応的な」行動である。状況を冷静に捉えることなく、今までの思い込みや長年の習慣的思考によって認識し、自分に限界を作っているのだ。例えば、失敗をしたとき「やっぱり私はできない人間だ」などと言って、自らを固定している。一方「しなやかマインドセット=罪」では、物事の要素を整理し分節を設け、取り扱うべきことを選択し、意識的に最良の行動をとっている。つまり「考える」という「選択的」な行動である。ここでは、限界はなく、ますます発展してゆく可能性を孕んでいる。失敗しても「もう一つのやり方でもう一度試してみよう」と自己嫌悪に陥らず、再び挑戦を繰り返すのだ。「しなやかマインドセット=罪」の方が理想的であることは言うまでもない。

 がしかし、我々は日常生活の中で、ここで示した「しなやかマインドセット=罪=考える=選択的行動」の心構えを常に持つことができるであろうか。学校で毎回いい成績をとっている友人に対して、「彼だからできるんだ」「私にはできない」や、職場でミスを犯した時に「同じミスばかりをして、僕はダメな人間だ。仕事ができない人間だ」などと思うことはないだろうか。また、何度も同じような嫌がらせをしてくるクラスメイトに「いい加減にしろ!」や、忙しい時につまらない用事を頼んでくる迷惑な客に「しばらくお待ちください!!」と不機嫌に応対するなど、反応的な行動を取ることはないだろうか。

 「本当の勇気」の中では、「恥」についてこうも述べられている。「恥(自分はこんなに悪い人間だという思い)は、閉ざすほどに支配してくる。」つまり、「自分は悪い人間だ」や「自分は仕事ができない人間だ」などの、行為と人格が分離されていない自己認識は、人に言わずに一人で思い悩む時、もっとも強力に人を消極的にするということだ。人に言えない悩みというのは、辛いものである。どんな人間にも、そんな悩みを持った経験はあるのではないだろうか。そして、その辛い悩みを解決する手がかりとし次のことをあげている。「恥は言葉に包まれるのが大嫌いだ。」つまり、「自分は悪い人間だ」と言葉にして、外に吐き出すことだ。誰かに打ち明けることである。ノートなどに書き記すことである。確かに悩んでいる時というのは、人に相談できるようになるまでが一番つらく、誰かに相談ができるようになったときには、その8割が解決しているかもしれない。また、自分が何に悩んでいるかがわからず、ただモヤモヤとしている時なども、いたずらに時間を過ごしてしまうことがある。こんな時は言葉にして、想いを明確にすることにより、「恥」という感覚は消えてゆくのだ。そして状況を客観的に捉えることができるようになり、他人の悩みを解決するように、思い煩うのではなく頭を働かせて対応することができる。「恥」は「隠すべき汚点」から「解くべきクイズ」のように、軽くなってゆく。

 また、感情的に反応的な行動を取らないようにするには、こちらも「言葉にする」という行為が効果を持っている。古川武士著「心が片づく『書く』習慣」には次のような方法が紹介されている。「事実」「気持ち」「提案」「結果」を書き出すというものだ。例えば、クラスメイトが頻繁に自分の癖毛をからかってくるという「事実」があった時、気にしていることを言われるのが嫌だという「気持ち」を言葉にして、もし好意があるのなら別の話題で話しかけてきてくれるか、好意がないなら関わらないでほしいと「提案」をして、そうすれば機嫌よく話すこともできるし、お互い嫌な想いをすることもなくなると「結果」を示すのだそうだ。突発的にここまでのことはできそうにないが、慢性的な人間関係のもつれなどは、一人でいるときに、このように問題を言葉にして整理すると、改善されてゆくだろう。

 思いや感情を言葉にすることは、次に起こす行動を変えてゆく。最初はうまく言葉にできないこともあるかもしれないが、慣れてくると自分の思いに気がつきやすくなり、言語化が早くなる。言語化された自分の思いや感情を客観的にみることによって、物事への対応の選択肢も増えてゆくのである。物事、世界を見る観点が増えていくのだ。そして、この世界の「奥行」を感じることができるようになる。今まで自分が感じていた世界に、知らなかった一面を発見する。そうすると一つ一つの経験の意味が豊かになり、学びが深くなってゆくのだ。このことを神谷美恵子はその著書「生きがいについて」の中で、次のように説明している。まず「視界によって、ものの奥行を認識できるのは眼が2つあるからである」とし、「2つの異なった角度から同じものをみているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行もわかる」と前提した上で、「ひとの心に、2つ、またはそれ以上の世界が成立し、それぞれの世界から、各々別な角度で同じ1つの対象をみるとしたら、この『心の複眼視』から、ものの深いみかたと心の奥行が生まれるのではないだろうか。」と述べている。

 父や母の言動に、思わず腹を立ててしまうことがある。父は特売品の情報や会員カードのポイントを集めることが好きで、大売り出しやポイント2倍DAYなどでは、欲しくもないものを買ってしまったりしている。とにかく安いものが好きなのだ。母は、好奇心が旺盛であるわりには、自分にはできないと尻込みをしてしまうことがよくある。先に述べた「硬直マインドセット」でいうと、父は「わしは貧乏人だから、安いものを買わんとあかん」と心の奥底で思っており、母は「私は何もできない人間だから、やっても無駄だし挑戦はしないでおこう」と思っているのではないだろうか。そんな二人の様子を見ているとイライラしてしまうのだ。「自分は貧乏だ」「何もできない」そんな「硬直マインドセット」は捨てて、「自分も好きなものを買ってもいい」「やればできる」と思い直してほしいと思い、筆をとってみた。私がたくさんの本から得た「しなやかマインドセット」のような前向きな姿勢は確かに有効なものであるだろう。

 しかし、少し立ち止まったのである。百田尚樹著「日本国紀」を読んでいるとき、「歴史の出来事は現在の価値観で判断してはいけない」と気づいた。例えば、日本には古くから祟りや怨霊を恐れる文化があった。今でこそ非科学的であると排除される考えであるが、かつて日本人がそのようなものを恐れていたという事実を知ることは、当時の人々の行動を考えるときの理解を助ける。そんなふうに、父と母の心構えも、もしかしたら、彼らの人生を振り返ったとき、それは私が感じているようなネガティブなものではないかもしれない。もしかしたら、子を思うが故に身につけた心構えなのかもしれない。その心構えが私を支えてきたのかもしれない。そう思ったとき、ただ本から得た知識で両親を判断することが、あまりにも不遜であると感じたのだ。

 私にはまだ「心の複眼視」はできないが、書くことで、立ち止まることができたような気がしている。そして、適切な努力によって両親を理解し、理解した上で、私が学んだことを話すことができるようになりたい。硬直した観念で捉えるのではなく、しなやかに適応しながら、成長をしてゆきたい。この世界は奥行きが深く、外側がない。つまり、テレビの番組に文句を言うように、外から関わるのではなく、一緒に番組を作ってゆくように、共に語りたい。

令和4年2月25日

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