新聞

 最近になって、新聞を購読し始めた。きっかけは、行きつけの美容師さんとの会話だ。なんの話をしていた時か忘れてしまったが、「私のお客さんで税理士の人がいるんですけど、その人は毎朝5時に起きて、日本の新聞5紙と海外の新聞もいくつか目を通すんですって。すごいでしょ!朝から元気〜」。僕はそれを聞いてハッとした。「そうだった。僕はそれをしようと思っていたのだ。」突然の衝動に自分でも驚いたが、本当にしようと思っていたわけではない。いや、そう意識していたわけではなかった。しかし、心の片隅で思っていたのである。朝早く起きて、日本の新聞を5紙、さらに海外のものも読む。明確に自分の中にあった計画ではなかったが、美容師さんとの世間話が、僕に自分でも気づいていなかった願望を思い起こさせたのだ。

 以前に仕事関係の上の人が、毎朝全ての新聞に目を通す、と言っていたのを聞いたことがあった。それが僕の中にくすぶっていたのであろうか。美容師さんの話を聞いたときに、眼が覚めたような気分になった。

 その会話がきっかけとなって、僕は美容室から帰ってすぐに新聞を申し込んだのである。

 とは言っても、いきなり5紙の新聞を購読するのは、金銭的にも不安だったし、そして全部読めるかどうかもわからないのに無茶だと判断して、ひとまず1紙だけを購読することにした。産経新聞を購読したのだが、理由については後述する。

 新聞を購読する前は、インターネットでニュースを読んでいた。僕の家にはテレビがないので、情報源はスマホだけである。これでずっとやってきたわけだが、今考えると物足りなかったのかもしれない。スマホで読むニュースはどうしても飛ばし読みをしてしまう。これは僕だけのことかもしれないが、真剣に読めないのだ。それに無限にあるニュースを眺めていると、どれを読んでいいのか選べなくなったのを覚えている。どれも面白そうだが、どれも僕には関係のないものに感じられた。この選べなくなる現象は、他にもある。僕はあまりに大きなスーパーに行くと買い物ができなくなるのだ。たくさんの商品を眺めて、とても楽しく思うが、いざその中から選ぶとなると、選べない。同じように、どれも魅力的だが、どれも関係のないものに見える。この現象は、他の人にも起こるのだろうか?一度誰かに聞いてみたい。

 新聞を購読してから改めて思ったのは、新聞はニュースの数が限られているので、どれを読むか選べるということだ。新聞にはたくさんのニュースが載っているが、感覚的にインターネット上にあるものより、少なく感じる。いや、その終わりを感じることができると言ったほうが正確だ。インターネットはどこまでも関連記事が出てきて、終わりを感じることはできない。しかし、新聞の紙面には限りがある。僕はスポーツ欄をあまり見ないので、なおさら限られてくる。そうなると、端から全部読みたくなってくるのである。読み進めて、一つずつ自分のものになっていくような感覚を楽しんでいる。

 また、紙という物体であることも楽しい。ネット上のニュースは画面を通していて、つかみどころがないが、新聞の記事は、意味はわからなくとも、目の前に確かにある、そんな気持ちになる。この物体をどうにかして理解してやろうとか、自分のものにするために試行錯誤することができるのだ。しかも匂いもする。全く内容とは関係がないが、人間は新聞という言語的な情報に対しても、五感を通して物事を理解しているのだろうか。五感の中でも嗅覚は最も古いものだそうだ。もしかすると、それゆえに最も原始的な認知であり、内容が腑に落ちるのかもしれない。そういえば僕の友達で、音楽はレコードで聞くのが好きな人がいるが、その理由として、レコードの匂いが好きだという。とにかく、僕はものとしても、新聞を気に入っているのである。

 新聞がものであるということと関係あるかもしれないが、僕の新聞の読み方は行動的で、書き込みをしながら読むのである。線を引いて、思ったことを書く。そして口に出して感想を言う。関連記事は大きく線を伸ばして繋げ、まるで授業をしている教師のように、「重要だ」と言いながら、ぐるぐると丸で囲む。文章を読むことは、黙って静かで、動きが少ないのが一般的だと思う。しかし僕の場合は、かなり活動的だ。紙面に線を引き、大きく声を出し、たまには立ち上がり、内容や感想を口にしながら、歩き回る。まるで一人芝居でもしてるかのようだ。この様子は、恥ずかしいのでお見せすることはできないが、やってみると大変おもしろい。読むという行為の概念がかなり変わる。僕は、新聞以外でもこのように動きながら読む。そうするとより積極的に内容が入ってくる。そして自分の問題のように真剣に捉えることができる。だからおもしろいのだ。黙って難しそうな顔をして読んでるだけではわき起こらない、解釈や感情が溢れてくるのである。この読み方は、僕がこの1年ぐらいで編み出したものだ。世の中にはこの読み方をしている人、もしくは似た読み方をしている人はいるかもしれない。その人々は、多分、読むことを楽しみまくっていると思う。僕もそうだからわかるのだ。

 ではなぜ、5紙も読む必要があるのだろうか。5という数字に意味はなく、全部の新聞社という意味だ。僕が住んでいるのは京都府だから、ここに京都新聞という地方紙も入れていいだろう。

僕の最初のイメージを具体的に言い換えると、すべての新聞を読んで、すべての記事に目を通したい、ということだろうか。

 ここには、一つの憧れがある。それは知識に対する憧れだ。僕の先輩や同僚も含めて周りの人間は、様々な知識を持っている。その知識を通して現実に対処し、神社や家族、自分を守り発展させている。その姿に、自分も立派な神主、社会人となりたいという願望が刺激されたのであろう。同じ神主であっても、古代の神事に精通している人もあれば、ホームページなど現代的なものに詳しい人もいる。それぞれその知識を活用して、仕事をしている。自分にもその力がもっとあればいいのにと思っている。

 さらにもう一つは、一つの事柄に対しても様々な意見があることを痛感している。同じ事柄でも、立場や地域が違うと、そのことに対する意見は驚くほど違う。そしてそのどれもが、説得力があり、真実であるように思えるのである。後に5紙を読み比べているので、そこに具体例は記述する。これらをまとめて、生きて行く力にしたいと思っている。台湾行政院デジタル担当政務委員のオードリー・タン氏はその著書の中で、様々な人々の話を聞くことは、「『自分自身の生活という角度から物事を見る』という制限を取り払う」ことを可能にするとし、「相手の個人的な経験や背景から述べられたことを通じて、『世界はこのような視点でも解釈できると理解できる』」ことをその利点としている。見聞を広げて、自分の限界を押し広げ、様々な人の意見を取り入れながら、複雑な世界をよりよくしたいと考えている。

 このように豊富な知識を得るということを目的としている面もある。がしかし、さらに僕がもっと欲しているものは、判断力や思考力である。新聞や書籍を読むことは知識を得るという機会と同時に、物事を考えるという機会も与えてくれる。この思考力こそが、僕のもっとも欲しているものだ。思考力がなければ日々の物事に対処できない。それは知識という動かないものではなく、生き物のように日々変化するものへの対応能力だ。この欲求が、先に述べた積極的な読み方にも通じている。知識を得て理解するだけでなく、それらを活かし、考え、行動していくために5紙を読むのである。

 それでは実際に読み比べてみよう。最近のトップニュースといえば、東京オリンピックだ。これなら各紙一面に記載し、その違いを見ることができるだろうと考えたのだ。開幕式の記事を見てみると、同じ出来事であるがそれぞれの表現が違うのが興味深い。各紙の見出しは次の通りである。

読売新聞「東京五輪 開幕 コロナ厳戒下 57年ぶり開催」。

産経新聞「東京五輪開幕 希望灯す 57年ぶり、コロナ禍無観客」。

日本経済新聞「東京五輪 開幕 コロナ下 大半無観客」。

朝日新聞「東京五輪 コロナ下の開幕 感染拡大傾向 乏しい祝祭感」。

毎日新聞「東京五輪開幕 コロナで厳戒 無観客」。

京都新聞「東京五輪 試練の開幕 コロナで1年延期 緊急宣言下 大半無観客」。

神戸新聞「東京五輪 無観客開幕 1年延期、コロナ下の17日間」。

 目立った表現は、産経の「希望灯す」、朝日の「乏しい祝祭感」、京都の「試練の開幕」である。産経は開催に対して賛成の立場であり、朝日、京都は反対の立場である。それぞれの主張が、見出しに表現されているように思う。

 また記事には、毎日が「57年ぶりに東京の地にともされた聖火は、再び「世界を一つ」にするだろうか。それとも分断の火種となるのだろうか。」と、「分断」という言葉をよく使っていた。東京五輪を悪いものであると、定義したい気持ちが伝わって来る。

 閉会式の見出しは次の通りである。

読売新聞「東京五輪 閉幕 コロナ禍 延期・無観客 メダル最多58個」。

産経新聞「東京五輪 閉幕 コロナ禍 残した遺産 日本『金』27個 史上最多」。

日本経済新聞「東京五輪 閉幕 コロナ下 世界と共に 異例の夏 未来へ糧」。

朝日新聞「五輪 異例ずくめ閉幕 無観客開催・メダル最多」。

毎日新聞「東京五輪閉幕 無観客・コロナ拡大 異形の祭典 日本勢メダル最多58個」。

京都新聞「コロナ急増下 東京五輪に幕 国内感染者3倍 医療逼迫、祝祭感薄く」。

神戸新聞「東京五輪 閉幕 コロナ急増の17日間、無観客最後まで 日本『金』27個、メダル最多58個」

 こちらも同じような傾向にある。産経「残した遺産」、日経「世界と共に」「異例の夏」、朝日「異例ずくめ」、毎日「異形の祭典」、京都「医療逼迫、祝祭感薄く」。

 ここでは各紙の傾向や主張は取り上げないが、僕が気をつけているのは、事実と意見をしっかりと分けることである。見出しを見ても、事実は「東京五輪 開幕」と「コロナ禍」、「無観客」、であろうか。そのほかの「希望灯す」「乏しい祝祭感」「試練の開幕」、「残した遺産」この辺りは意見であろうか。さらに、「異例ずくめ」「異形の祭典」などは事実といえば事実だが、意見の影響を感じる。また「コロナ拡大」「医療逼迫」も事実であるが、オリンピックとの因果関係は今もってわかっていない。これも意見だろうか。

 これらの事実や様々な意見があることを認識し、思考することの材料としていきたい。僕としては、どれがあっているなどを吟味するより、それぞれの共通項や可能性を模索して、社会の発展につながるアイデアを出していきたいと思っている。

 今は産経新聞を購読している。僕は神主なのでいわゆる「保守派」だ。保守派の新聞としては読売か産経と聞いていたので、なんとなく産経にした。ときどきほかの新聞を買って読み比べたりしている。特に情報通になったり、世の中の動きがわかるようになったりはしていないが、出来事について考えたり、社会のことを会話する機会は増えた。この思考の小さな萌芽が、大きく育ち、人の幸せに貢献できることを願っている。

 以前、祈りについて書いたことがある。祈りは、心の中に理想の状態を思い描くことで、その可能性、きっかけを、この複雑な現象界から見つけ出すことができる。そして現実を変えてゆく。そんな風に考えたが、この思考という行為もまた、現象界の捉え方を見つめ直し、そこから行動を変え、より高度な未来を作るのでないかと思った。知識という意識の表面だけではなく、祈りや思考がうまれる心の深いところに働きかける。新聞を読むことで、現実を豊かにすることができるのではないかと思っている。

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