私が大学時代に専攻していたのは哲学であった。17世紀ドイツの哲学者ライプニッツに興味を持ち、研究をしていた。ライプニッツは哲学者であるだけでなく、数学、法学、歴史学、神学、物理学などさまざまな分野で活躍した人物であり、政治家で、外交官でもあった。微分積分と聞いたら数学が苦手であった人間は嫌な顔をしてしまうが、その方法を確立したのもライプニッツであった。そのような彼の学問の中で、私は哲学、特に「モナドロジー」という著書を研究した。その中でも「共可能性」という概念が、私の心をとらえて、現在に至るまで影響を与え続けている。
「モナドロジー」の中では、ある存在が現実に存在することを「現実存在する」という。そして現実存在するためには、根拠が必要である。どのような存在も根拠なしには現実存在するとは言えない。ではその根拠はなんであるか?ライプニッツは、「何ゆえに、何ものかが、無ではなくて現実存在するのか、という根拠が自然の中にはある」とし、現実存在の背後に何かある特定の根拠が存在しているわけでなく、可能的なものの「共可能的なもの」こそが、「現実存在することの根拠」としている。これは、存在を離れてその根拠があるのではなく、その存在の中に根拠はあることを言い、またその根拠は「共可能性」を持っているということである。「共可能性」とは、可能的なもののすべてとなんらかの仕方で相互に共有し合うことである。つまり、可能的なものが、他の可能的なものと相互に共有し合う性質が、現実存在することの根拠なのである。話が抽象的でわかりにくいかもしれない。卑近な例を挙げてみよう。
例えば、4人組の人気ロックバンドがあったとする。この時、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムのそれぞれのメンバーは、ここでいう「可能的なもの」である。彼らは立派なロック魂を持ったバンドマンであるが、バンドマンは一人ではステージに立てない。メンバーがそろってはじめて一つのバンドであり、音楽を奏でることができる。そして4人そろった時にはじめて、バンドメンバーそれぞれ、そしてバンド、さらにはその音楽も「現実存在」するのである。つまり、一人ではバンドにも音楽にもならないメンバーであるが、バンドやその音楽側から見れば、その成立には欠くことのできない存在であり、彼らがバンドを構成する以上、彼らは「現実存在」し、その根拠は彼らの中にあるのである。彼らがバンドマンとして「現実存在」することができているのは、楽器を持っていたり、技術があるという外から与えられたものが根拠であるのではなく、その音楽を共に作り上げた彼ら自身の行為そのもの、またその存在、互いにその音楽を共有している性質が、彼らが現実存在することの根拠となっている。この4人の関係、つまりそれぞれがいなければ、それぞれは存在しない、要するにバンドは存在しない、この関係こそが、可能的なもののすべてとなんらかの仕方で相互に共有し合う、「共可能性」である。
もう少し噛み砕いて表現してみると、4人のメンバー1人1人は、ただのバンドマンであり、それぞれだけでは、「メシは食っていけない」。しかし4人そろうと、独特のグルーヴをかもしだし、人気ロックバンドとなって、「メシを食う」ことができる、現実存在することができるのだ。このバンドのグルーヴは、4人にしか出せず、彼らが「メシを食って行く」には4人でいることが必要である。つまり共に現実存在を可能にしあっているのである。こんな関係が「共可能的」なのである。
もう一つ例を挙げてみよう。あるところに冴えない男性と冴えない女性がいたとする。「冴えない2人」は結婚をしたのである。そして子供を授かった。そして子育てが始まったのであるが、このことが彼らを「冴えない2人」から「イケてる3人」にしたのである。彼らは家庭を営むことの「世界一の才能」を持っていたのである。彼らは「世界一の家族」となった。男性は良き父として、また夫として、子を守り仕事で成果を上げた。女性は良き妻として、また母として、子を慈しみ家庭を守った。その子も、理想的な両親のもと最高の子供として、心と体を成長させていったのである。
この時、この3人は「共可能的」である。つまり、冴えない男女であった2人は、結婚し子を授かったことにより、良き父であり良き夫、良き母であり良き妻となり、「世界一の家族」、つまり「現実存在」したのである。妻がいなければ夫はあり得ず、反対に夫がいなければ妻はあり得ない。さらに、子がいなければ親であることはあり得ず、親がいなければ子はあり得ない。「世界一の家族」の構成員である冴えない男女は、子も含め3人集まることによってはじめて「世界一の存在」、つまり「現実存在する」のである。
バンドマンの例では、「現実存在する」ことを「メシを食う」、家族の例では、「世界一の家族」と言い換えている。例えが具体的すぎて、ライプニッツの普遍的な表現の細部と齟齬が生じているのではないかと不安ではあるが、私はライプニッツの「共可能性」をこのように解釈している。
このような考えは、東洋では珍しくない。代表的なものは2世紀インド仏教の僧である龍樹(りゅうじゅ)である。サンスクリットではナーガールジュナとも言われる。中観派の祖であり、「中論」という書物を記している。その中には「空」の思想が「縁起」という概念をもとに語られている。「縁起」とは、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることであり、そこから現象はそれ自身で存在するという「独立した不変の実体」ではないとし、そこに関わるすべての存在は「空」であるとしたのである。
これをライプニッツの用語と対応させてみると、「縁起」というのが「共可能性」であり、「空」は「現実存在しない」、ということになる。つまり、あらゆる現象は因果関係の上に成り立った「縁起」の状態で、共に「共可能性」を持っている。よってその現象を構成するそれぞれの存在は、それぞれだけでは「空」の状態、つまり「現実存在」できないのである。
例えの話に当てはめてみると、バンドは「縁起」し、「共可能的」であるが、メンバーそれぞれだけでは「空」である。家族は「縁起」し、「共可能的」であるが、男性、女性、子は、それぞれだけでは「空」である。
物理学においても、このような考えの類似を見ることができる。自然科学において、一般に観察することは対象を外部から見ることであると思われているが、量子の世界では観察者は観察対象の一部になってしまうという。つまり存在は相互に関係しあっているので、こちらの行動が対象に影響を及ぼしてしまうそうだ。対象を外側から純粋に観察しようとしても、こちらの影響を受けてしまって、対象は変化してしまう。イタリアの理論物理学者であり作家でもあるカルロ・ロヴェッリは、その著書「世界は『関係』でできている」の中で、「この世界の記述はすべて内側からのもので、外側から観察される世界は存在せず、そこには内側から見たこの世界の姿、互いを映し合う部分的な眺めしかない」と言っている。つまり、観察している対象の中に自分を、また自分の影響を見てしまうのだ。先ほどの例を挙げると、バンドのメンバーであるヴォーカリストが、バンドを外から観察した時、そこには必ず自分の歌声をきく。歌声を排除してしまったら、それはそのバンドではなくなる。つまりここでは、観察者である自分を排除したなら、それはこの世界ではないのだ。
関係し合うから、存在は現実存在できる。繋がりこそが我々を可能にしている。この世界観に魅せられてきた。しかしだからと言って、隣人とベタベタとなんでも関わろう、というようなことを言うつもりはない。ここで語られたのは、巧みな処世術ではなく、存在の仕方、存在論の話である。ヒトとヒト、モノとモノ、カネとカネ、さまざまなものが関わり合って変化している。それぞれの関係の中で、それぞれ互いに影響しあっているのである。
この世界がどのように成り立っているのかを知りたくて、存在論に興味を持った。存在を語ることは、この世界から一歩外に出て、外からこの世界の様子を言い表すことである。しかし、行き着いた先には、「この世界には外側がない」と言う現実であった。だから私たちは、内側からこの世界を見ることしかできないのだ。そのような私たちができる最も有効な手段は、他者と語り合うことだ。内側からの眺めを、違った視点を持った他者と共有することで、存在を語るのである。この世界には外側はなく、我々は自らを含む世界しか見ることができない。自分の視点からでは見えないものを他者の目を借りて認知してゆくことが、最も有効な手段である。そしてお互いがお互いを含む世界を知り、影響を与え合っていくのである。よって世界は絶えず変化し、捉え難き存在だ。私が世界を語りあなたに影響を与えたとき世界は変化し、あなたが世界を語り私に影響を与えたとき世界はまた変化する。
私は神主である。神と人との間に立って、祈りをささげる。神と人との関わりを執り持つ役目をしている。私が今感じている最も美しい関係は、「祈る」という関係だ。祈るとは、「意」を「宣る」、つまり「自らの意思を覚悟をもって宣言すること」である。そのことにより、自ら行動し、他者に働きかけてゆく、現実を変えてゆくのだ。祈りは静かであるが、その力は激しく、いつまでも絶えることはない。存在が互いに関係し合うこの世界で、互いを可能ならしめることを祈り合う。それは互いが相手の存在の根拠として存在する、尽きることのない永遠の栄えを感じさせる美しい世界像である。神主が神前において人の祈りを宣言するとき、それは神の祈りとなる。その時、人は神の存在を可能ならしめ、神もまた人を可能にしている。
令和の世になって月日が過ぎた。この元号の英訳はBeautiful Harmonyというらしい。平成31年4月1日、当時の安倍晋三首相の記者会見の中では、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められている」と発表された。もし今まで述べてきたように、互いに影響を与え合うというこの関係から抜け出せないのであるなら、我々はどのように関わってゆくべきであろうか。それぞれでは「メシを食うこと」もできず、「冴えない」私たちであるなら、どのように関わってゆくべきなのであろうか。それは、「心を寄せ合い美しく調和する祈りの関係」であると、私は覚悟をもって宣言する。
令和4年1月25日
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