つながり

 神職には定期的に研修というものがある。神職としての教養や技能を高めるために講義や指導を受けるのである。私のようにまだまだ修行中の神職は研修で学び、その能力を伸ばさなければならない。先日は雅楽研修会というものがあった。1000年以上昔から日本に伝わる伝統的な音楽、それが雅楽だ。神職は、教養として、またその職務として雅楽を演奏し理解しなければならない。

 こういった研修会に参加するのは嫌いではないが、知らない人たちがいるので少し緊張するものだ。今回の研修は2日間あったが、最初の1日は他の参加者と話す機会もなく、緊張したまま終えたので、1日目の研修を思う存分には楽しめなかった。そのようななか、2日目も緊張をしたまま迎えたので、少し不安に思っていた。

 私の楽器は篳篥(ひちりき)である。本体は漆を塗った竹でできており、舌(した)と言われる蘆(あし)を乾燥させたものを差し込み、それを震えさせて音を出す楽器だ。雅楽を聴いたときに一番よく聞こえる楽器の音が篳篥である。

 不安な気持ちのまま休憩時間に、同じ篳篥を演奏している方と会話を交わした。その方の仕事は、大学の数学教授であった。私は数学に興味というよりも憧れを持っている。興味というほど勉強をしたり、理解はしていない。ただただ、数学って素敵だなーと遠くから眺めているだけである。その憧れの数学を大学で教えているという人が、目の前にいたので興奮したのだ。

 その方の研究は図形であり、それも我々がよく知っている、2次元や3次元の図形ではなく、10何次元の図形を研究されているとのことであった。全く理解のできない世界だが、とにかく話が聞きたかったので、質問をたくさんした。その中で、10何次元の図形は、頭の中にしかないのに、その話をしたときに、みんなで共感できるのは興味深いという話をされていた。脳の仕組みと関係があるのかもしれないとおっしゃっていて、全く意味はわからないけど、印象的であった。

 この方と話ができたおかげで、がぜん研修会が楽しくなったのである。今までは他の参加者の方と一緒にいるけれども、一人ぼっちのような寂しさと不安を感じていたが、共通の興味を持つ人がいることを知って、「つながり」を感じることができたのだ。人は「つながり」を感じることができると、安心したり、楽しくなるのだろう。私が勤めている神社のことも知っておられたので、またの再会を楽しみにしている。

 人は「つながり」を求めている。古くは紀元前のギリシア哲学、プラトンの「饗宴」の中にも、エロスといういわゆる愛の神様を賛美するという食事会の場面で、こんなことが語られる。

 「なぜ男女は互いに求め合うのか?」

 それは、もともと男女は一つであったからだそうだ。「男女(おめ)」といって、体は球状で、背中と脇腹がその周囲にあり、4本の手と足があり、頭は一つだが顔は背中合わせに2つあり、耳が4つ、隠しどころが2つ、という姿をしていたらしい。この「男女」はとても強力で神々に対して挑戦的であったために、おとなしくなるように、2つに切断された。だからもともと一つであった彼らは、互いを求めて再び一緒になろうとしているというのである。

 奇想天外な神話だが、真実をうまく言い当てていて、とても興味深い。雅楽の研修会で不安になっていた私は、かつての半身を見つけてつながりを求める。私と大学教授が前述のような球状の姿になったというような想像をすると、さらに面白く感じる。

 このプラトンの神話については別の機会に述べるとして、古くから人が「つながり」を求めることについて、思索がなされてきたことは注目すべきである。この本の中では、男性女性の結びつきだけではなく、同性同士の結びつきもこの説で説明されている。

 日本にも「つながり」が意識された概念がある。現在を表すときに「中今(なかいま)」という言葉を使う。これは、現在を賛美する表現であるとともに、「過去と未来の中間にある今」という意味が込められている。「続日本紀」の和銅元年(708)に記載があるようだ。これは、単に時間的な現在を言うのではなく、過去から「つながっている」現在を表す。過去と言っても、それは神話の時代、神代(かみよ)からの「つながり」であって、遠い先祖との「つながり」である。そして、「中今」は過去とだけではなく、栄え続ける未来との「つながり」も含まれている。まだ見ぬ我々の子孫たちとの「つながり」である。

 人が自らの一生に思いを馳せるとき、永遠の時間の一部分を生きたと感じることは、安らぎを覚えさせるそうだ。精神科医であり作家でもある神谷美恵子は、その著書「こころの旅」のなかで、「『超時間的に』時間を観ずることができるようになるのが望ましい。そうすれば自分の一生の時間も、悠久たる永遠の時間から切りとられた、ごく小さな一部分にすぎないことに気づくであろう。」「(そういった気づきに)従って、老いつつある人間にも死を越える未来が開けるだろう。すべてはその永遠の時間に合一するための歩みと感じられてくるであろう。」と記し、老年期の心の理想的な状態を説明している。自らを超えた存在との「つながり」が、安らぎをもたらすのである。それらの「つながり」を包含した現在を「中今」と呼ぶそうだ。

 一方、思春期の課題として心理学者のエリク・H・エリクソンは、「自己のアイデンティティの確立」をあげている。アイデンティティという言葉は、よく耳にする言葉であるが、ここでその意味を確認しておくと、「個人的同一性と歴史的連続」という意味である。

 「個人的同一性」とは、昨日の自分と今日の自分、小学生の時の自分と20歳の時の自分、それらの自分が同一の人物である、同一の自己であるという、認識である。この感覚がなくなってしまうと、自分が誰であるのかが分からなくなり、不安を感じるという。誰であるのか分からなくなるという表現は、少し大袈裟に感じるかもしれないが、私自身、離婚をした直後は、先月まで家族揃って笑いながら夕食を食べていた自分と、離婚後小さなアパートで1人静かに夕食を食べている自分との「つながり」を感じることができなかった。自分が何であり、何をしてきて、これから何をするべきなのかが、全く分からなかったのを思い出す。「個人的同一性」が欠如した不安定な状態であったのだろう。なぜ今の自分は過去の自分とは違った状態であり、今この状態をどのようにしてゆくべきなのか、そのことが、断片的に頭の中を駆け巡り、うまく繋がらない状態であった。人生の物語がつながっていなかったのであった。

 次に「歴史的連続性」とは、ある事柄の起源を考えることである。「個人的連続性」は文字通り個人の「つながり」の問題だが、こちらは社会的な事柄の「つながり」である。自分が生まれた社会の歴史や文化、その起源を感じることだ。その社会の物語のようなものと捉えたらいいのかもしれない。たとえば、アメリカにおける日本人の2世や3世、日本における韓国人の2世や3世の苦悩や戦いは、社会的な物語の不和がさまざまな感情となって噴出しているのかもしれない。

 この2つ、つまりアイデンティティを獲得するかどうかが、思春期の課題であるそうだ。「つながり」は心の問題に大きく影響するようである。

 私が「個人的同一性」の欠如した状態から立ち直ったきっかけは、おそらく「モーニングページ」であると思う。これは、朝起きて頭の中にあるものを何も考えずにただ書き出すというものだ。自分の考えの断片がノートの上に散らばってゆく。その中から少しずつ「つながり」が見え、その「つながり」から今までの自分やこれからの自分の姿が現れたのではないかと思う。書き記すことで、感情の渦の中から外に出ることができ、客観的に自分を見ることができた。自分の物語を作ることができたのではないかと思う。

 「歴史的な連続」、すなわち社会の物語は、文字通りその国の歴史である。そして起源は日本の場合、日本神話である。この日本神話は、教育の現場では教えられていない。これは戦後の教育の方針であるが、自らの起源への興味や関心は、教育の現場で教えられていなくとも、盛んなようである。昨今は日本神話を題材にしたようなゲームやブログなども人気である。しかし、日本神話や日本の歴史を特に嫌う世代がある。それは戦後に生まれた団塊の世代である。ことさらに日本は侵略戦争をした極悪の国家であると認識し、西洋の文化や革命に憧れを持った世代である。もしかすると、この団塊の世代は、歴史的連続性を失った不安定な世代なのかもしれない。アメリカによる占領中、その心の中心に祖国との「つながり」を持てずに育ってしまったのだろうか。

 そんな教育の核として、教育基本法がある。教育基本法は昭和27年(1947)3月31日に公布されて以来、平成18年(2006)にいたるまで、改正は1度もされてこなかった法律だが、文字通り日本の教育の方針が書かれているのである。安倍元首相が、旧教育基本法についてこのように述べている。「確かにいいことも書いてありますが、この基本法はどこの国の基本法かわかりません。非常にコスモポリタン的で日本の香りがしません。」これは、占領軍の狙い通りだったと思われるが、その基本法に基づいて教育された世代をどう評価するべきだろうか。もし思春期のアイデンティティの獲得に障害があったのなら、彼らの日本への嫌悪は、本当に彼らの感情なのであろうか。不自然に与えられた物語であり、その起源を奪われたとも言えないだろうか。

 「歴史的連続性」は、団塊の世代だけの問題ではないと思う。若い世代や我々40代の世代も、大きくその起源から隔たっていると思う。よく神社に来るのが好きだとか、お祭りは楽しくて、地域を愛することは大切だというような人でも、日本という国家や日の丸に対して、嫌悪感を抱いている人は多い。安倍元首相にこんな言葉がある。「戦後レジームがもたらしたもので、絶対に落とせないのが、個人と国家を対立するもの、国家を抑圧装置と捉える考え方ではないでしょうか。地域のコミュニティーは大切にするけど、そこから国家をバイパスしていきなり地球市民になるという特異な考え方は日本独自のものでしょう。」地域のイベントや特産物を自慢することはあっても、日本の歴史や、特に戦争のことについては口を閉じ、自虐的な歴史観で反省ばかりをしている。「地球にやさしい」とか「グローバルな人材」というような言葉には、よく考えずに従ってしまう。これらのことに思い当たる節はある。

 話は戻って、雅楽は明治の頃まで楽譜がなかった。全て口伝であったそうだ。現在でも楽譜は覚え書きのようなもので、全てが書かれているわけではない。そして、楽器での演奏の練習が許されるのは、唱歌(しょうが)をしっかりと覚えてからである。唱歌とは、演奏する旋律を「チーラーロー」のような一定の規則に則った言葉にしたものであり、これを暗唱する。これと似たものは、インドの伝統音楽にもあるそうだ。タブラという太鼓の一種の演奏においては、叩くリズムを口で言えるようになってから楽器で演奏するようだ。この唱歌は、先生から教えてもらう。まさに口伝えなのである。何度も繰り返して、先生と同じように歌うことができて初めて、楽器を持つことができるのだ。このような先生との濃密な交流は、唱歌と同時に、音楽に対する姿勢なども伝えてくれる。深い「つながり」が大切なものを教えてくれるのだ。

 前述の数学の教授は、頭の中にしかない図形が、他人に伝わったり共感できることはとても楽しいことであり、そして音楽もこれと似ているとおっしゃっていた。音楽という形のないものは、頭の中にしかない図形と同じように、初めは実体がなく、他人と一緒に見ることができないが、交流を通して「つながり」が、そして新しい音楽が生まれ、現実の響きとなっていくということであろうか。

 8月15日は、終戦の日である。小学生の頃から、ただ過ちを反省すべき日であると教えられてきた。その後、知識が増えて、当時の日本人の、国を守るために命をかけた素晴らしさや、共産主義、植民地主義に抵抗した正義感を知り、私の「歴史的連続性」に変化が訪れている。再度安倍元首相の言葉を引用する。「今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子供たちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場で倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。」過ぎ去った過去は、我々には全く関係のないものではなく、私たちのアイデンティティを支える一つの要素でもあり、私たちの一部である。先人たちとの「つながり」が、わたしたちを支える。そして、子供たちを支えるのである。

 私の父は団塊の世代であり、前述のように日本国家や社会に対して嫌悪を抱いて生活している。それぞれの意見は、尊重されるべきであるが、今一度、私が持った日本の起源との「つながり」を伝えたいと思う。その時、父の心には安らぎが訪れるだろうか。

令和4年8月16日

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