哲学者宣言

 私は哲学者である。この世界を言論で説明し、人類の幸福を追求する。そのために残りの命を費やし、哲学書を残すことをここに宣言する。いささか大袈裟な感じがするが、私の決意である。神職としての立場とともに、言論での貢献を誓うのだ。「である」というのは正確ではない。古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉を借りれば、「現在、哲学者で『ある』」のではなく、「絶えず哲学者と『なる』」のである。ヘラクレイトスは「万物は動き、何一つとして留まることはない」といった。すなわち「いかなる事物もこれとかあれで『ある』のではなく、ただ絶えずそう『なる』にすぎない」。私は哲学者として認められ、哲学者としての資格を持ち、哲学者として「ある」ということを宣言しているのではない。「絶えず哲学者と『なる』」ための行動を取るということをここに宣言するのである。これは読者に対しての宣言であると同時に、自己に対しての戒めでもある。

 こんな宣言をするその理由は「自分が自然とそうなっていた」というのが一番現実に近いであろう。しかしその程度の気持ちでは弱いと感じ、ここに不自然ながらも宣言をするのである。大学は哲学科を卒業したが全く勉強をしていなかった。哲学書なるものを一冊全部まともに読んだこともなければ、哲学史もあやふやであった。そのような状態から音楽に夢中になり活動にのめり込んでいった。結婚や育児、神主としての勉強なども経験する中で、関心が哲学的なものへと移っていった。そして離婚を経験し、酒浸りの日々からの脱出を助けてくれたのは、音楽ではなく文章を書くことであった。そして何よりもそれを読んでくれる人の支えがあったからだ。それが私を哲学へと向かわせたのだ。しかし、先人たちの書物を読むに従って、今の自分のままでは、哲学を深く理解し自分なりの思索を深めることはできないと思い、自分を鼓舞するためにも宣言をしたのだ。

 なんせ哲学書は難しい。何を言っているのかわからない本ばかりである。それなのになぜ哲学を志すのか。一つには憧れである。難しいことを理解しているという優越感を味わいたい。これは幼い頃に見た坂本龍一氏のイメージである。美しいメロディを作ることができ、それを演奏し、一般人とは違う深い哲学を持った芸術家という姿に魅せられたように記憶している。私もそんなふうに他の人とは一味も二味も違う人間になりたいと思ったのだ。もう一つは、世界を説明したい。哲学は、世界を論理や概念を以って説明する学問である。一方、宗教は神話という物語を使って世界を説明する。この「世界説明」をしたいのだ。神主であるから神話を使って説明するべきだが、論理や概念がなければ納得しない自分もいる。それは数学や物理などの学問への興味と合わさって抑えることはできない。神道と哲学、これが両立するのかも証明したい。今の私の立場、すなわち神主である人間が哲学に興味を持ったなら、それは解き明かすべきである。神道に哲学はあるのか。もっと具体的に言えば、どのような論理や概念があるのか、その体系的全体像はどのようになっているのか、問うてみるべきである。

 「絶えず哲学者となる」その方法の正解を、私はもちろん知らない。だから手探りで進んでゆく他はないのである。私が考えている方法は4つある。1「モーニングページ」、2「随筆」、3「全集を全部読む」、4「レジュメを作る」。

 1「モーニングページ」は、朝起きた時に頭の中にあるものを全て書き出すというものだ。とにかく書き出すので前後のつながりや間違いなどは全く気にしない。そして書くことがなくなれば、同じことを書いたり、「書くことがない」と書いてもいいのである。とにかく書き続けるのだ。これを始めてから4年がたった。先ほども書いたが、酒をやめることができ、また読書の量も増えた。どういった理由からこのようないいことが起きたのかはわからない。言語化するという現実の分節が関係していると思うがよくわからないのだ。しかし現在の私の基礎はここにあると確信している。朝起きて言葉を書く。これによって人生を切り開いたのだ。だから「絶えず哲学者となる」行動の一つ目は、モーニングページ以外にはないと思っている。

 2「随筆」。モーニングページを始めてから一年後、私はこの随筆を毎月書くようになった。今回で40編だ。これはモーニングページで書き留めたことの中から、一筋の思想のようなまとまりを感じたので書き始めた。私は言論で世界を説明しようとしているので、絶えず言語化することが必要である。短くまとめた毎月の随筆が、体系的な哲学書への礎になるのではないかと思っている。

 3「全集を全部読む」。これは小林秀雄氏の作家志望に対してのススメである。小林秀雄は菊池寛から教えてもらったようだ。私はそれをYouTubeでネオ高等遊民さんと脚本家のタケハルさんとの対談で知った。又聞きの又聞きであるが、納得のいくものであったので実行している。ある作家の作品を傑作や駄作、日記や書簡に至るまで全て読むのだ。それによって世間が作家に張ったレッテルを剥がして本当の姿を知ることができる。作品をどのように発展させていったか、何を残し、何を捨てたか、知りうる限りの全てをそこから読み取ることができるそうだ。そのことが自分も作家としてどのように歩んでゆくかの参考になるということであろう。

 現在私はニーチェ全集を読み始めたところだ。まだ1冊目の「古典ギリシアの精神」である。全集読みを紹介していた脚本家のタケハルさんは、そのコツを2つに分けて説明していた。理想論として感動した作家のものを読むか、現実論として冊数が少ない作家のものを読むということだった。ニーチェの全集は全部で15冊である。もちろん少なくはないが、柳田國男のものは36冊と別巻が2冊ある。まだマシである。そしてニーチェはあとで詳述するが、竹田青嗣氏のいう「本体論の解体」、すなわち「世界の背後を説く」ことを否定しており、これにはとても関心があるので、全集を読むのはニーチェにした。現実論と理想論の二つを叶えてくれている。しかし精読をしていたら何年もかかりそうなので、とにかく「とりあえずの達成感」を得るためにもハードルをかなり下げて、通読、もしくは素読ができたらいいことにした。通読とは最初から最後まで読むことであるが、それも素読、つまり理解することを二の次にして声に出して読むこととした。これならできそうである。わけがわからなくてもとにかく前には進むだろう。ニーチェの思想はもちろんのこと、用語に慣れるため、またその哲学者としての息遣いを感じるためにも最後までやり切るつもりだ。

 4「レジュメを作る」。全集読みは素読であったが、こちらは精読である。現在の興味の対象になっている本のレジュメを作りながら読むのである。これはかなり時間がかかる。がしかし、理解は深まる。全ての本をこのように読めたら楽しいだろうと思う。しかし私の場合本当に時間がかかるし、また体力も持たない。疲れるのだ。頭も体も疲れてヘトヘトになる。そんなにたくさんの量はこなすことができないが、コツコツやっている。レジュメを作ると理解が深まると同時に、書く時にも便利である。ある概念のまとめや引用文なんかもすぐに出てくるのだ。これも哲学書を書き上げる時には大いに役に立つであろう。

 これらの他にもさまざまな行動が考えられる。日々の生活や体験、私の場合何よりも神を祀るという行為からも学び、哲学へと昇華させてゆくつもりである。

 私が書き上げたい哲学書の全貌は朧げながら頭の中に浮かんでいる。まずは全ての存在は繋がっているという関係性の存在論。これは大学の時からの関心事で自分の言葉で説明をしていきたい。そしてこの存在論から必然的に、この世界の背後に人間が認識できない世界を認めるかどうかという問題が浮かび上がってくる。カントの物自体がそのイメージだが、こういった背後の世界をニーチェは否定している。先述の竹田青嗣氏もニーチェの言説を引用し主張していた。ここには批判もあるようで、もっと自分なりに思索を深めていくつもりだ。

 そしてそのような世界で我々はどのように生きてゆくべきかという倫理的な側面も述べてゆく。これには神道的な思想を用いるであろう。具体的には天皇という祭祀者を中心とした国づくりから個人の生活を考えてみる。ここで区別するのは国家的な「根」と個人的な「根」を考えることだ。国家的な「根」に関しては歴史を振り返れば、日本は神を祀る国としての像が浮かび上がってくると思う。賛否あると思うが、素直に歴史を振り返り、国家の「根」と言えるような、歴史を通じた重要な共通項は天皇しかいないと思う。

 一方、個人の「根」は複雑である。戦後の教育を受けた私たちは天皇を否定する考えを教えられている。戦前の日本を反省し、全く違った新しい国となることが是として教えられてきた。つまり必然的な日本人の「根」を根こぎにされたのだ。このことは、日本の歴史を振り返るのとは違って、肉体を持つ自己を振り返り、条件反射的な、無意識的な思考や行動を意識的に認識する必要がある。その中で個人の「根」は、純粋に日本という国家には求められないのではないかと思っている。理想の姿としての古代日本の社会を、現在のすべての個人の中に見出すことができるであろうか。自然と湧いてくる郷愁の念として古代の社会はどこまで有効であろうか。反射的に天皇に嫌悪感を抱く人間に、天皇を中心とした国家の素晴らしさが伝わるのであろうか。幼い頃からそのように過ごしてきた80歳を迎える老人に、心の底からの安心感が与えられるだろうか。掘り返された「根」は、また息を吹き返すのであろうか。オスロ大学教授マーク・テーウェン氏は、神道神学を『「古代の和・現代の堕落・古代の復興による将来の新たな和」というユートピア思想』と評している。この評は神道神学と実際の神社を区別し、ある政治的な目的を持った概念としての空虚さを述べていると思う。つまりは神道そのものではなく、神道を手段とした行動を分析し、その特性を「ユートピア」という皮肉的な響きを持つ言葉で表現している。

 主題は日本人としての「根」というものになったが、これはさまざまな国に当てはめることができるかもしれない。多種多様な影響を受けながら育った現代人の「根」を、その祖国に求めることができるであろうか。そして祖国に求められないとしたならば、我々は何を以って自らの「根」とし、そこから大きく育つことができるのであろうか。私個人の問題としても深く考え、幸福のための解を示したい。

 最終の目標は体系的な哲学書を完成させ、それによって世界を説明し、人類の幸福に貢献することだ。しかしあまりにも遠い目標では持続できないであろうから、近くて小さな目標を掲げた。それは「令和7年4月19日に哲学書の第一校を完成させる」というものだ。とにかく書いてみる。そして見渡して問題を発見し、一つずつ解決していくつもりだ。この日付は、哲学者宣言を思い立って彼女に打ち明けた日だ。そこから一年でラフを作り、全体像をさらに具体化してゆく、そのための具体的な日にちを設定した。

 モーニングページで行っているように、言語化することは現実を変えてゆく。彼女がほほえみながら私の決意を聞いてくれたことは、私が現実的に哲学することの第一歩となった。哲学書の完成、それによる幸福への貢献を以って、その恩に報いたい。

令和6年4月29日

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