祈りの源泉

 紅葉の季節がやってきた。赤や黄色の葉っぱがあちこちで見られて、季節が変わったと実感する。今年は11月になっても夏のような日があったので、いつになったら秋が来るのだろうと思っていた。例年よりは1週間ほど遅れて見ごろを迎えた今年の紅葉は、穏やかな日が続いたせいか大変綺麗である。

 私が奉職している神社の紅葉は見事で、参拝者からは「ここが一番の色づきです」と何度も言われた。長い参道を通って本殿に辿り着くまでも美しいが、お参りが終わって振り返って見る参道にはかなわない。出口のほうまでつづく紅葉のトンネルは、色鮮やかに光っている。やっぱり神様のところから見える景色が一番だと誰かが言っていたが、もしかすると写真には写らない何か神聖な光というものがあるのだろうか、優しくこちらを包むような色とりどりの紅葉が、そこからは見えるのである。

 普段は人の少ない神社だが、この時期にはどこからともなくたくさんの参拝者がある。大型バスも狭い住宅街を通ってやってくる。そこで働く私はもちろん大忙しである。七五三や結婚式、朱印を書いたり、たまってゆく事務仕事、息つくひまもない。

 家に帰ったらぐったりで何もする気力もないが、腹はへる。腹はへるが食べ物はない。離婚をした独り身だから、もちろんご飯を用意して待っていてくれる人もいない。そんな状況を嘆きつつ、また苛立ちながらインスタントラーメンやスーパーの惣菜を食べる。まずくはないがおいしくもない。おいしくないが食べないわけにもいかない。しぶしぶ食べてそれなりに腹を膨らませる。腹は膨らむが満足はしない。だからお菓子や果物をいくつも食べる。一つ食べてはもう一つ、二つ食べてはもう三つ。これはもうはち切れそうというところまで食べるとやっと満足し始める。そして寝転び、そのまま寝てしまうのだ。

 そんなことを繰り返していたら、お腹は出てくるし、ストレスは溜まるし、元気もなくなる。だから美味しいご飯を食べるようにしている。私は料理が上手くはないが、それでも自分で作ったものは美味しく感じる。満足するのだ。買ってきたものばかりだと満足しないし、余計なものも食べるし、あまり元気にならない。だから自分で作ったものを食べるのがいいと思っている。でも忙しい時は料理するのがめんどくさい。そんな時は鍋にする。野菜をなんでも切って炊く。それをポン酢でいただく。だいたい美味しいし、元気が出る。シメの雑炊には卵をといて、漬けものをそえる。雑炊自体には味をつけずに、漬物やその他ご飯の供を合わせたり、ポン酢をかけたりする。味が濃い部分と薄い部分があるのが良い。サラサラと味のない部分を食べてから、時々古く漬かったぬか漬けの濃い塩味をいただく。これがたまらない。そうやって元気をつけて、この繁忙期を乗り切るのだ。

 そんな中、やはり哲学書は書かねばならない。ということは本を読んで思索しなければならない。思索するには、お腹をいっぱいにして寝ている場合ではない。しっかりと規則正しい生活をしなければ、集中することは難しくなるばかりである。私の場合、哲学することは、よりよく暮らすことでもあるのだ。

 暮らしということでいえば、今年は部屋を模様替えした。まずは2月ごろに本棚を作ったのだ。置き場所がなくなってきたので、壁一面を本棚にした。2×4という木材を買ってきて、天井に突っ張っり、横にも木を打ち付けた。相当な量の本がおける本棚ができた。棚が空いていると気持ちにゆとりが出てまた本を買う、ますます本が増えてきたのだ。

 次に6月には、その本棚にある一冊がきっかけとなって机を低くした。一般的な事務机の足の部分を取り払って、高さが3、40センチぐらいの小さなちゃぶ台の上にのせた。つまり椅子式の生活から座式の生活にしたのだ。ある本とは西尾幹二の「国民の歴史」である。別に「日本人なら座式で暮らせ!」と書いてあったわけでもないのだが、建築の様式を比べた時に、ソ連領、オリエント、中央アジア、などのユーラシア全土がほぼ同じ形式だったが、日本だけが違ったという。その特徴は、

  • 土間式ではなく高床式であった。
  • 瓦葺ではなく檜皮葺きであった。
  • 家屋の木部を丹土塗りではなく白木作りであった。
  • 履き物を脱いで上がる。
  • ベッドではなく畳の上に寝る。
  • 椅子式ではなく座式であった。
  • 家屋が密閉式ではなく全面解放式であった。
  • 個室ではなく大部屋式であった。

以上の8点が日本の独自点であると知ったので、どれかできないかなと思ったのだ。ワンルームの賃貸に暮らしているので、高床式や檜皮葺きはできない。白木造りは、その本棚が白木であるが、2×4の木材はそんなに日本的には見えない。もちろん履き物は脱ぐし、部屋が狭いのでベッドは置いていなかった。寒がりだから全面開放は無理である。残ったのは座式であった。少し抵抗はあったが、思い切ってやったのである。

 机を低くすることでくつろぐことができるようになった。というのは座る場所と布団を敷く場所には畳を置いたので、ゴロゴロと寝転ぶ場所が増えたからだ。床の上に寝転ぶのは痛いが、畳だと心地よい。子供の頃は畳がある家に住んでいたからであろうか、畳に素足で立ったり寝転ぶだけでリラックスできている。リラックスできるのはいいが、哲学書を書かなければならない。だから本を読んだり思索しなければならない。果たしてこの座式の生活が哲学書執筆に向いているかはまだわからないが、とても気に入っている。

 哲学の内容については、最近はもっぱら日本語文法である。その中でも英語文法の焼き増しのような日本語文法ではないものに注目している。これは「どんなものがどのように存在しているのか」という問いと、「私たちの根は何か」という問いに答えることができると思っている。存在については、ハイデガーが存在を「sein」という繋辞(コプラ)を元に論じていることに着目をして、繋辞を持たない日本語には別の仕方で存在論を展開できる可能性があるのではないかと思っている。これについては浅利誠が多くを書いており、今はそれを参考に理解を深め、自分なりに文章にしようとしている。根についても、日本語というヨーロッパの言語とは違う構造を持つ言語が、私たちの経験を基礎づけていると考え、その比較をしてみたいと思っている。金谷武洋の「神の視点」「虫の視点」はとても参考になり、手本にしながらさらに現象学的な意識の志向の面から根について思索を進めたい。

 また本居宣長の「もののあはれを知る」ことにも注目している。簡単にいえばさまざまな感動を知ることであり、このことが真の教養というわけだ。ここで「しらす」という言葉を思い出す。これは天皇の統治のあり方を表す言葉で、「知る」の尊敬語である。一般には統治するという意味もあるが、私は「知る」の意味であると思う。天皇の最も重要な仕事は国家の安寧と国民の幸せを祈ることである。にもかかわらず天照大神の神勅の中には、天皇が国民のために祈りなさいというものはない。その代わりに「しろしめせ」=「お知りになりなさい」という言葉があるのだ。これは「国民のことをよくお知りになりなさい。そうすれば自ずとその幸せを祈りたくなるでしょう」、そんな天照大神の真意があるのではないだろうか。「もののあはれを知る」と合わせて、知るということとその影響については、私たちの根と深く関わるのではないだろうか。倫理的なこととも関わるだろう。国のトップが国民のことを広く深く知る、私たちが古い時代の物語や文章を読んで「もののあはれを知る」、それらのことで生まれる感情やつながり。そしてそれを伝える言葉。私はここに最も重要な、そして最も身近な私たちの生を左右するものを見る。

 今週末が最後の行楽の賑わいであろうか、紅葉が散り始めている。年末年始の準備も始まって、私たち神主の仕事は年間を通して最大の繁忙期を迎える。今年は例年に比べて忙しい気がする。体もしんどいが、心の方も限界に近い。苛立ちが激しくて、普段通りの会話ができない。いつも何かに追われるように過ごしている。景色は落葉がヒラヒラと優雅に風に舞っているが、一方私たちは気分がイライラと頭を掻きむしっている。

 今日も残業をして帰ってきた。イライラしている。イライラしながら畳の上に座り、目の前の壁一面の本棚を眺める。今日は鍋を作るのもめんどくさい。本棚を眺めながら大盛りのもう一つ上の爆盛りのインスタント焼きそばを食べる。買ってきた白ごはんと唐揚げも食べる。食後にアイスも二つ食べる。神社から頂いたみかんとバナナも食べる。お腹がはち切れそうである。しかし「きらずあげ」というおからのお菓子も食べる。口の中が塩味になったのでチョコも食べる。チョコを食べたところで、さすがに気持ちが悪くなってきたので、いよいよやめにした。

 食べるのをやめにして、本でも読んで勉強しようとしたが、気持ち悪くて集中できない。だからスマホを持つ。スマホを持って畳に寝転ぶ。ゲームをいくつか中途半端にやってXを開く。いつも通りのネトウヨ的なポストがずらりと並んでいる。その中で三島由紀夫botがこんなことを言っている。「まことに人生はままならないもので、生きている人間は多かれ少なかれ喜劇的である。」本当にそうである。偶然にもXが今の私の気持ちを代弁してくれた。頑張って仕事をして帰ってきたら、自分の好きなことができると思ったら、ストレスで食べ過ぎてこのザマである。ままならない、思い通りにならない。ままならない人生をみんな過ごしているのである。

 天皇は国民の幸せを祈るために、天照大神から国のことを「お知りになりなさい」と言われた。私も人並みの「人生のままならなさ」を経験し、身をもって人の生を知る。私よりももっと大変な職業の方々、例えば医療関係など、この「ままならなさ」をより強く感じている人々はたくさんいることだろう。思い通りにならない現実を毎日過ごし、そこから少しでも自分の理想に近づきたいともがいている。それが私を含めた人々の願いである。この願いを私は神前で祈る。私の祈りの源泉は、実はこの「ままならなさ」にあるのかもしれない。

令和6年12月7日

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