盆栽

盆栽

 僕は盆栽初心者である。小さな盆栽を買ってきては、眺めてニヤニヤしている。盆栽が元気になれば僕も元気になり、元気がなくなれば僕も枯れてしまう。一喜一憂し、盆栽に振り回されているヒヨっ子盆栽愛好家なのである。

 盆栽といえば「サザエさん」の父である波平さんを思い出す。カツオが野球のボールをぶつけて、松の枝を折り、「バカもーん!」と怒られるアレである。お年寄りの趣味であると同時に、高価なものであるというイメージがある。だから自分には関係のないものだと思っていたが、実際に売っているものを見ると1000円ぐらいからある。2000円も出せば立派な盆栽が買える。しかも最近ではカジュアル盆栽と言って、少し洋風なものが出ていたりする。いかにもお年寄りのものというイメージはなくなり、手が出しやすいものになっている。だからと言って、僕の周りの人間で盆栽を持っている人がいるかといえば、一人もいない。いるとすれば通勤途中にある大きな家の庭先でちょきちょきやっている怖そうなオッチャンぐらいだ。そのオッチャンの盆栽を見る目は、眺めるというよりは睨みつけるように鋭く、とても冷徹な目をしている。どこまでも冷静で、ヒヨっ子の僕からすれば、怖くて仕方がない。植物を愛でるという一見優しく柔らかな世界と思いきや、冷静で合理的な精神が要るようだ。とにかく、それまで全く知らなかった世界に興味を持ってしまったのである。

 そんな盆栽に興味を持ったきっかけは、僕が彼女と付き合いたてのころ、植物園に行ったときのことだ。そこで開かれていた盆栽の品評会らしきものに、終わりの時間ギリギリで入り、見学をしたのだ。受付のオッチャンに「もう終わりなんだけどな〜」と小言を言われたが、笑ってごまかして入っていった。まるで悪いことをした気分であったが、よく考えてみるとまだ時間内であったので、僕たちには入る資格があったはずである。オッチャンとは、得てしてこのような「言わなくてもいいこと」を簡単に口にする生き物だと思ってしまう。厄介ではあるが、その反面、盆栽に関してはものすごい知識を持っていたりする、あなどれない存在でもある。

 僕はもともと観葉植物を育てていたので植物には馴染みがあったが、盆栽は持っていなかったし、あまり興味もなかった。しかし付き合いたての彼女が興味津々だったので、「よし!行こう!」とあたかも興味があるようなフリをして入っていったのである。その頃、僕は植物よりも彼女に興味があったのだ。

 入ってみると、どれも見事な盆栽で、お手本のような、イメージ通りの盆栽たちが並んでいた。今にも皮が取れそうになっている樹齢が古そうな松や、くねくねした名前のわからない植物たちが、綺麗な鉢に入れられ、名札もつけられて、とても大切にされているようであった。知識も何もなかったから、どんなものがどんな形であったかはもう忘れてしまった。とにかく立派そうな盆栽たちが30鉢ほどあっただろうか。

 実際に見てみると、とても立派な盆栽に興味を惹かれたが、そこにたくさんいる何やら詳しそうなオッチャンたちにも釘付けになった。そのオッチャン達に彼女が質問をすると、1に対して5、いや10ぐらいの答えが返ってきた。もう途中から話が全然入ってこなかったのを覚えている。一生懸命話してくれたオッチャン、ごめん。でも、話が長すぎて、、、しかも、オッチャンは身振り手振りをつけて話すものだから、勢い余って、こともあろうか古そうな松の皮を“手振り”でハタいて取ってしまった。とても大事そうなものなのに大丈夫かと思い、さぞ驚き慌てふためくのかと思っていたら、オッチャンは何事もなかったかのように話し続けていた。僕は思わず「おいおいオッチャン、大丈夫か」「本当は大慌てのくせに」と、心の中で突っ込んでいた。そんなことがあったので、話には集中できなかったのである。もともと植物をたくさん育てている彼女は、こんなオッチャン達には慣れっこらしく、曰く、植物好きのオッチャンは話好きでもあるらしい。1の質問に対して10の答えは普通らしい。しかも、取れてしまったものは仕方がないと、全く気にしない様子で、肝の座った人が多いのかもしれない。

 僕はといえば、そんなことより、チャンスがあれば彼女と手をつないでチューでもしたいなあ、なんて思っていた。そうこうしていると、入ってからまだ10分も経たないうちに、表彰式が始まるからといって、僕たちは会場を追い出されてしまった。むしろ表彰式があるなら、お客がいた方がいいんじゃないのかと思ったが、植物好きのオッチャンたちは僕らをはじめ、見に来ていた人を全員追い出して、自分たちだけで表彰式を始めてしまった。「これが盆栽ツウの人たちなのか、なかなか変わった人達だなあ」と思ったものである。

 日も暮れてきて、植物園もそろそろ閉園の時間だったので、僕たちは出口に行こうとした。「この夕暮れの雰囲気なら、木陰でチューできるんじゃないかなあ」って僕は考えていたが、彼女が歩き始めた僕を呼び止めた。そこには臨時の盆栽屋が出店されていて、それらの店もそろそろしまいかけていたのだ。彼女はすごい勢いで僕から遠ざかっていき、盆栽を食い入るように見ていた。僕は「こんなところじゃチューできないぜ」と思いながら、盆栽をぼんやりと眺めていたのである。店がしまいかけで、もう「持ち帰り用のカゴ」にキチキチにしまわれていた盆栽達は、とても見にくかったが、そのなかに一つ「目を引く盆栽」があった。

 素焼きの小さな鉢に植えられていて、高さは20センチぐらいの黒松だった。この盆栽の形が変わっていて、くねくねと曲がりながら左の方へ伸びていた。後から知ったが、これが「文人(ぶんじん)」という樹形だそうだ。細い幹がすらりと伸びて、下の方の枝が全て払われたものだ。まだ直径1センチぐらいの細い幹が、右に左に曲がっている。枝は綺麗に払われて、下には1本だけ枝があり、一番上の枝は3つに分かれていた。それぞれの枝からは尖った葉っぱが生えている。見ていると体をくねらせ手を広げて、こちらにポーズをとっているように見えて、なんとも愛らしい。僕はこの黒松に心惹かれてしまった。価格は2000円。「これくらいなら買うことができるけど、盆栽なんて育てられるかなあ」と思っていた。

 彼女はといえば、店の人がしまっていた盆栽たちをどんどんと引っ張り出して、店の人と話しながら楽しそうに見ていた。そしてその盆栽たちも魅力的なものが多かったのである。古そうな鉢に植えられたクネクネの木や、小さいのに太い幹の木など、僕はどんどんと盆栽たちに惹かれていった。そして彼女は別の黒松を、僕は最初に一目惚れした「文人」の黒松を、それぞれ買ったのである。これが僕と盆栽との出会いである。チューしたいのを我慢しながらも、ユニークな形の松に心惹かれたのだ。この松がきっかけとなって僕たち二人は、盆栽に夢中になっていった。もちろんお互いにも夢中になっていったのである。どこでチューをしたかはここには書かない。内緒である。

 盆栽とは「盆」と「栽」である。僕が通っている盆栽園のオッチャンの言葉だ。またしてもオッチャンがいる。こちらのオッチャンは関西人だから、「盆と栽で盆栽や〜。わかるな〜」という。あまりわからなかったが、「はい、わかります。」と答えてしまった。深い意味は今でもよくわからないが、つまり植木鉢と木のことだろう。この組み合わせが盆栽なのである。盆栽園には、立派な盆栽も売っているが、素材と言われるまだ小さなものや、形がまだ整えられていないものも売っている。そういったまだ盆栽になっていない木に、鉢を選んでやり、その関西弁のオッチャンに植え替えをしてもらうと、さっきまでヘニョヘニョに見えた木が、なぜか立派な盆栽になるのだ。この普通の木が、特別な木になる感覚が僕にはたまらなかった。この変身ぶりに心を奪われ、植え替えをしたくなったのである。

 この植え替えを初めて体験させてくれたのは、彼女であった。僕の家に紅葉とカリンの木の素材を持ってきてくれた。さらに重たいにもかかわらず、土やその他の道具も電車で運んでくれたのである。「僕の彼女、ありがとう。君は最高の彼女だよ。盆栽達より愛してるぜ。」ノロけている場合ではない。

 植え替えの手順は、まず、植木鉢の底に水がはけるように穴が空いているが、この穴に網をつける。土がこぼれないようにするためだ。そして素材である植物を、もともと植えられていた鉢からだし、根っこを整理する。上級者はこの根の整理をとても丹念にするようだが、僕のようなヒヨっ子は何をしていいのかわかってないので、ただズボズボと先を削った割り箸で、根をほぐしていくのである。ワケはわかってないけど、この作業がけっこう面白い。本当は伸びすぎた根を切って、土を少し残した状態で、太すぎる根や、方向が悪いものも切るようだ。僕はヒヨっ子だから、どんどんほぐして、根の形が露わになるのを楽しんでしまう。普段見ない根を見るのが楽しいのだ。また、土を触るのも気持ちいい。小さいころ砂場でよく遊んだが、そんな感覚で土を触っていると、やめられない。

 そして盆栽の正面を決めて植え付けるのだ。そう、盆栽には正面がある。植物に正面も後ろ姿もないだろうと思うかもしれないが、これがあるのだ。目を凝らして植物を見ると、「こっちです」という方向がある。必ずある。僕が見てきた植物の数はまだまだ大した数ではないが、けっこう見てきたつもりだ。そのどれにも正面はあった。植物には必ず正面があるのだ。「こっちです」と言っている。次に植物を見るときには注意してほしい。この正面を見つけたとき、僕流に言えば、目と目があったとき、心がときめくのである。正面がわからない人は、このときめきを手掛かりにしてもいいだろう。何やら話がおかしくなってきた。

 とにかく、正面を決めて高さを合わせ、土を入れていくのだ。そうして苔をはり、水をあげたら盆栽だ。このときに針金をかけたりもするが、今回は省略した。針金は針金で、話が長くなる。今回僕が伝えたいのは、この植物が盆栽になる瞬間の感動である。綺麗な鉢に一人で凛と立ち、こっちを見ている植物はとても美しい。まるで、入学式の子供のように、新しい人生のステージに立って、今から大いに羽ばたこうとしているかのようなのだ。これは絶対に言い過ぎだと思うが、それぐらい感動するのが、盆栽である。ぜひみんなにやってみてもらいたいと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました