植物とともに

 ワンルームマンションのベランダで植物を育てている。ちまたでは、庭で植物を育てる人「ガーデナー」に対して、ベランダで植物を育てる人を「ベランダー」というようだ。令和3年の4月に初めて盆栽を買った。それまでは観葉植物を3つほど持っていただけであったが、その盆栽をきっかけに山野草、多肉植物、サボテン、エアプランツ、ビカクシダなど増えに増えて、令和4年6月の時点で130を超える植物を育てている。私のワンルームマンションのベランダは植物用の棚が置かれ、直射日光を避けるためのネットを張る枠組みまで作られている。1年ほどで、それなりの「ベランダー」になったように思う。

 ここまで植物にのめり込んだのは、彼女の影響である。植物がとても好きな彼女と本格的な植物屋さんに行くようになり、良い植物たちを間近でたくさん見てきた。詳しい人たちと出会い、直接教えてもらったりもした。植物の面白さと育てる喜びを肌で感じじさせてもらったのだ。こんな経験をすると、誰でも私のようになったのではないだろうか。手間暇をかけられて綺麗に育った植物たちを見ていると、自分もこの美しさに関わりたくなったり、また、ぞんざいに扱われてきたであろう可哀想な植物たちを見ると、自分が手塩をかけて育て、美しくしてやりたいとも思うこともあったのである。

 植物好きのあいだでは、次々と植物を買ってしまうことを「植欲が止まらない」というそうだ。1つ植物を買うと、それをきっかけに2つの植物が欲しくなってしまうように、指数関数的な速さでこの欲求は膨れ上がってゆく。私の「植欲」もまたみるみるうちに膨れ上がって、狭いベランダを植物で埋め尽くしてしまったのだ。この1年間で私もいろんな植物に“ハマって”きた。ある時期に集中して、たとえばエアプランツばかりを買ってみたり、サボテンを買ってみたり、山野草を買ってみたりした。浮気症なのだろうか、2、3ヶ月おきに変わってきている。

 最近私がハマっているのは、蘭である。よく開店祝いなどで、変わった形の花が連なっている胡蝶蘭という花を見たことがないだろうか。どうも作りものぽくって、以前はつまらないと思っていた、そのわりにはなんだか高そうなアレである。蘭は、その胡蝶蘭をはじめ世界中に約750属20000種を超え、日本には200種ほどあるそうだ。多くが昆虫に花粉を運んでもらい子孫を残してゆく虫媒花で、花粉を媒介するその昆虫とともに進化を続け、単子葉植物の中で最も進化した植物として、今なお種分化を続けていると考えられている。

 そんな蘭との出会いは京都植物園で開かれていた洋蘭展であった。寒い盛りの2月の頃である。その頃はエアプランツ、中でもウスネオイデスに夢中であった頃だ。ウスネオイデスとは、見た目がまるでラーメンをぶら下げたような植物である。短く細い葉っぱが長くつながっていて、空中に垂れ下がっているのだ。よくおしゃれな服屋さんやカフェにぶら下がっている。そのくねくねと垂れ下がっている葉っぱに魅了されていたのであった。パーマをあてた女性のくねくねの髪の毛を見てもウスネオイデスを思い出していたほど、頭の中はそれでいっぱいであったのである。

 その頃は蘭には全く興味がなく、なんなら少し気持ち悪いと思っていた。胡蝶蘭も作り物のようでつまらないと言ったが、そのほか、根っこがくねくねと伸びてきているものや、茎に筋が入っているものなど、なんとなく肌に合わない感じがしていた。

 洋蘭展では栽培者の人たちの見事な蘭が飾られており、投票によって一番の蘭が選ばれるようだった。さらにその展示の傍には、蘭の販売が行われていた。私は全く興味がなくても、植物の販売となるとついつい見てしまう。ホームセンターなどの園芸コーナーなど、植物好きはみんなそうであると思うが、売っていると放っておけないのだ。そして、その中にラーメンを発見したのだ。つまりラーメンのようなウスネオイデスに似た蘭を発見した。セイデンファデニア・ミトラタという着生ランである。まったく興味がなかった蘭ではあったが、その頃好きであったウスネオイデスに似ていたので目に止まったのだ。しかも値段が550円と書いてあった。興味はないけれども、これぐらいの値段なら買ってもいいかなと思い、向こう側で植物を見ていた彼女を呼び、セイデンファデニアを見てもらった。彼女もあまり興味はなかったらしく、「いいんじゃない」ぐらいのことを言った。550円は安いよねというと、5500円だと、私の見間違いを指摘してくれた。思っていた値段の10倍であったので、私の購買意欲は一気にしぼんでしまった。一桁間違えるなんて、おっちょこちょいである。

 その後、展示の蘭の投票をしたり、他の店を見たりして過ごしたが、そのセイデンファデニアが思いのほか気になっていた。しかしその時の私には、蘭に5500円は高いという思いがあったのと、気持ち悪いと思っている蘭を買っても嫌になるだろうという思いがあったので、結局その日は買わなかったのである。

 がしかしこのことが後悔の種になった。何日か過ぎてもラーメンが忘れられないのである。むしろ日増しに思い出すことが多くなり、興味のなかった蘭ではあったが気になって仕方がなかったのだ。その頃ハマっていたウスネオイデスは家にいくつもあって、部屋の中でぶら下がっている。同じようなものがぶら下がっているのに、セイデンファデニアが忘れられなかったのである。

 私はある植物が気になると、インスタグラムでその名前のハッシュタグをフォローする。みんながどんなふうに育てていて、どんなところが好きなのかがよくわかるからだ。セイデンファデニアが気になってからは、もちろんフォローをした。

 セイデンファデニアは、すらりと垂れ下がる細くて肉厚な葉っぱと、くねくねと下にも上にも登ったりする根っこが特徴だ。ラーメンで言うとストレート麺とちぢれ麺であろうか、葉っぱは濃いみどりいろをしていて、根っこはうすく白みがかったきみどりいろだ。同じように垂れ下がっているが印象が違っているのである。初めは優しく優雅に垂れ下がる葉っぱを見ていたが、あるときちぢれ麺である根っこの美しさに気がついた。蘭のこのような根っこは「気根」という。土の中ではなく空気中に伸びてゆくのである。木の表面などに着生して成長してゆく蘭は、気根を木に這わせて伸ばし、しがみつくようにくっついている。

 根っこの美しさに気が付いてからは、私は取り憑かれたようであった。インスタでは蘭の根っこの写真ばかりを見て、妄想を暴走させていたわけだが、まだ肝心の蘭は持っていなかった。というのも今まで蘭には興味がないどころか、気持ち悪いと思っていたので、どこに売っているのか知らなかったのである。メルカリなどインターネットで買うこともできたが、もう一度実物を見たかった。この時点では、私は二次元に恋するアニメファンのようであったのだ。

 そんな私が初めて蘭を手に入れたのは、彼女を通じてだ。私の仕事は、土日は必ず出勤であるために、土日に開催されることが多い植物のイベントなどには行くことが出来ない。そんな私に代わって彼女が買ってきてくれたのだ。蘭を専門的に売っているお店は知らなかったが、こういった植物のイベントには売っているということを彼女が知っていたのである。セイデンファデニアを追いかけているうちに、同じように根っこが美しいキロスキスタという蘭も好きになっていた。こちらは「無葉蘭」とも呼ばれ、文字通り葉っぱがなく、根っこだけだ。根っこファンにはたまらない代物である。このキロスキスタを、彼女が植物イベントで見つけて買ってきてくれたのだ。セイデンファデニアが気になって、蘭に興味を持ったが、最初に手に入れたのはキロスキスタであった。

 キロスキスタは直射日光には弱く、水が好きである。がしかし、ずっと濡れている状態は良くない。中心部から腐ってしまうそうだ。だから、こまめに水やりはするが、風通しを良くして、乾かすことも必要なのである。

 彼女はイベントで買ってから私に渡してくれるまでの数日、キロスキスタに優しく水を与えてくれていた。そうしているうちに、あまり蘭には興味のなかった彼女も心変わりをしてしまったようであった。

 このキロスキスタをきっかけに、私と彼女の蘭への「植欲」は爆発したのである。蘭を見つけては買い、毎日何度も根っこの話をし、自分の蘭の写真やネット上の拾い物の写真を送り合ったのだ。今では、蘭との出会いのきっかけであるセイデンファデニアをはじめ、20種類以上の蘭が家にはある。作りもののようだと言っていた胡蝶蘭も、大きなものと小さなものと2つ持っている。

 優雅な葉っぱ、くねくねの根っこが好きであると言ったが、もちろん花も忘れてはならない。蘭の花は左右対称である。一般的に、外側にあるがく片は3枚あり、一枚は上向きに2枚は左右に伸び、そして内側に花弁が3枚あり、右と左に1枚ずつ、下向きに1枚ついている。がく片と花弁が交互に重なり、美しく整っているのだ。そして、この下向きの花弁を唇弁(しんべん)やリップと呼ぶ。この唇弁が蘭の花の特徴であり、美しい点だと感じている。というのは唇弁に色のついたものや、それが袋状になっているものなど、印象的な美しさを持ち、また多種多様だからである。これは前述の通り、蘭は昆虫に花粉を運んでもらい子孫を残してゆく虫媒花であるため、さまざまな昆虫の大きさや行動様式によって花の形態を変化させてきたからである。生物学の世界では、これを共進化という。一つの生物学的要因が引き金となって、別のそれに関連する生物学的要因が変化することである。つまり、自己の変化が他者を、他者の変化が自己を変える、関係性の存在論である。お互いがお互いの存在理由になっているのだ。科学の世界では観察者が対象の変化に影響を及ぼすことはないと考えられていたが、量子の世界をのぞいた時、対象には観察者の影響が色こく出ている。新たな発見であり、大きなパラダイムシフトであると捉えられているが、生物の世界では、複雑にそれぞれが関係しあい、分けることが出来ないのは当然のことである。

 唇弁の奥に花粉や蜜があるため、ここの大きさや形態は昆虫のそれらに影響され、また、昆虫にも影響を与えてきたのである。蘭の花の美しさは、蘭が持つ生命力の賜物であると同時に、昆虫をはじめとする蘭を取り囲む環境の造作でもあるのだ。

 4月11日に私の家にやってきたキロスキスタ・ビリディフラバは、5月1日に花を咲かせてくれた。柔らかくなめらかな印象の黄色い花だ。これを書いている6月21日の晩にも、その美しい花を雨に打たせながら見せてくれている。蜘蛛の巣のような根っこの塊の中から花芽が伸びてきて、20ほどの花をつけ、こんなにも長い間、私の目を楽しませてくれているのだ。

 その後手に入れたセイデンファデニア・ミトラタも今花を咲かせている。こちらは赤紫の花で、甘酸っぱい香りをさせている。ベランダに吊るしてあるが、部屋の中まで匂ってくることもある。

 そのほか蘭はたくさんの花を見せてくれた。中でも羽蝶蘭(うちょうらん)の花は、ひだになっていて、妖精などが出てきそうなくらい異世界を思わせる美しさがある。この花は、私にメルヘンの扉を開かせるかもしれない。

 人がものを見るとき、目から脳へと信号が伝達されると思っていたが、どうも逆であるらしい。信号の大部分は目から脳にではなく、脳から目へと向かっているそうだ。自分たちの周りから像が目へと向かうのではなく、脳の予測と違っていたものだけが脳に知らされる。そうして、すでに知っている事柄と関連づけることで、自分たちの目に映ったものを理解しようとするのだ。

 私はウスネオイデスをラーメンのようだと思った。ラーメンかと思ったら、植物だったのである。つまり、脳の予測と違っていたものが脳に知らされ、印象付けられたのかもしれない。そして、セイデンファデニアという蘭をラーメンのようなウスネオイデスと思ったのである。すでに知っている事柄と関係付けて、私は理解したのだ。

 しかしそこからは大袈裟に言えば、未知との遭遇だった。白みがかったきみどりいろの、くねくねと曲がった根っこたちは、私が知っている何とも似つかない、それでいてとても懐かしいような美しさがある。また、花は私に空想の異世界をも想起させる。蘭と共にあるとき、私の脳は目からの信号を受け、未知の美しさの虜になる。または、心の奥底にある、我々が先祖から受け継いだ古い記憶を呼び覚ましているのかも知れない。

 私が植物に水をあげなければ、植物は全て枯れてしまうが、植物に水をあげなくてもよくなったとき、私の何かは枯れてしまうだろう。冒頭、私は植物を育てていると言ったが、共進化の観点からすれば、私も植物に育てられている。彼らの影響は私に「ベランダー」という肩書き以外に何を与えているのだろうか、ふでのまにまに考えてみる。

令和6年6月22日

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