皇位継承の猿猫論争

 Xのポストがきっかけとなって皇位継承について考えることがあった。皇位継承の問題といえば「女性天皇、女系天皇」にまつわるものである。われわれ神主は、この「女性天皇、女系天皇」には反対であるというのが一般的な認識であろう。その例に漏れることなく私も「女性天皇、女系天皇」には反対をしている。その理由は、男系男子が日本の伝統だからである。しかし過去には女性天皇はいらっしゃった、それなのになぜ反対なのかというと、女性天皇は女系天皇への足がかりとなるからである。女性天皇を容認し、その次に女系天皇を認める世論を作ってゆく、そうすることで日本の伝統が少しずつなくなり、皇室の権威を失墜させようとする勢力、共産勢力に対抗するために、女性天皇にも反対しているのである。これは竹田恒泰氏やその他の保守の学者たちも同じようなことを主張している。概ね私の主張と同じであると思う。今回は、「女性天皇、女系天皇」を容認する方の意見を参考に考えを深めようと思う。

 容認する方の理由を2つ取り上げてみる。まず初めに、現代は昔と違って側室がないということである。いわゆる一夫多妻制ではなく、一夫一妻制であるからだ。養老の継嗣令(けいしりょう)では、皇后以外に、妃(二員)・夫人(三員)・嬪(四員)の計九名の側室が公認されていた。ところが現在では側室制度は廃止されているのだ。側室がないということは子供の数が少ないということであるので、男系男子を維持することは困難になっている。さらには歴史上の実例として、皇統男子の約半数が皇后の摘出以外の「皇庶子孫」である。よって、その約五割の役割を果たしていた側室がないのであるから、男系男子を維持することはさらに困難を極めるということである。

 これには頭を抱えるのである。歴史を振り返ったときに、皇后、いわゆる天皇の本妻以外の子が約五割もいらっしゃったということは、一夫一妻制の現在に男系で継承してゆくことの難しさの証左であろう。では側室を認めたらいいのではと思うが、現代社会ではそれが受け入れられるとは到底思えない。しかも側室の制度を廃止されたのは昭和天皇であるというから、そのご意志を考えると尚更である。また、男子ができなければ離婚すればいいという意見もあるようだが、これは側室よりも受け入れられることはないだろう。数年前に「女性は子を産む機械」と切り取りの報道をされた大臣がおられたが、それどころの話ではなくなるだろう。女性をまさに子を産むだけの存在として扱い、その役割を果たすことができなければ取り替える、また陛下に皇后との離婚を強要する、それが果たして守るべき伝統であろうか。

 がしかしこのことを以って私は、女性・女系天皇を容認することにはならないと思う。今回(令和6年5月)の「安定的な皇位継承のあり方」に関する協議では、①女性皇族が結婚後も皇室に残る案、②旧皇族の男系男子を養子に迎える案などが出され、また更には③旧宮家の皇籍復帰などの案がある。今までの皇位継承と違う形すなわち女系を選択しなくとも、まだ方法は存在するのだ。ちなみに①に関しては女系につながるのではないかと訝しく思っている。女性宮家のようなものにはならないのだろうか。この点に関しては、百地章氏が『日本国憲法 八つの欠陥』の中で、姓や皇族費の問題を挙げているが、今回は取り上げられてはいないようだ、大丈夫だろうか。

 次の理由は、天皇は女系で継承されてきたという主張だ。これを聞いた時は驚いた。男系で継承されてきたと教えられたし、また系譜を見ても男系であることは明らかである。しかし天皇は女系の万世一系であるという意見があるのだ。その証拠は2つある。まずは第四十三代元明天皇から第四十四代元正天皇への継承が女系であるという。このお二方は女性であり親子である。母から娘へと継承されている。ここで大事なことは元正天皇の父は草壁皇子であり、草壁皇子の父は天武天皇である。このことを踏まえたうえで検証する。元正天皇の即位前のお名前は氷高内親王。この「内親王」という身位は、律令による規定では「天皇の兄弟と一世子女」とされ、「二世孫以下は王」と定められた。ということは、「氷高内親王」という時は「天皇の兄弟と一世子女」と認識されていたということであり、天武天皇の孫ではなく、元明天皇の娘ということが強調されていたということである。よって天武天皇と男系で繋がっていたから即位したのではなく、母である元明天皇と繋がっていたから即位したのであって、これは女系での皇位継承であるというものである。そして2つ目は、男系というのは、「家系で、男の方をたどった血筋」であるが、女系とは「厳密には、女子だけを通じた血族関係をいうが、広く、中間に一人でも女子の入った、男系でない血族関係を指して用いられることもある」ということで、元明―元正の間の皇位継承が女系であるから、天皇の系譜は女系であるというのだ。そのほかの皇位継承が全て男系だとしても、この一回の女系での継承があった場合には、全体の継承が女系での継承と称されるというのだ。更には女系だと考えると、神武天皇からまだ遡って天照大神までゆき、女系での万世一系というのだそうだ。

 これを聞いた時は本当に驚いた。カルチャーショックと言ってもいいぐらい、想像すらしたことがなかった意見を聞いたからだ。知らないことはまだまだたくさんある、いろんな方と話をしなければならないなと思った、まあ私が知らなさすぎるのではあるが。

 この意見に関して1つ指摘をしておくと、これは「具体的なものをとりちがえる間違い」ではないだろうか。この「間違い」は、イギリスの数学者であり哲学者でもあるホワイトヘッドの提唱である。この提唱が指し示すのは、具体的な状態をいったん抽象化して把握しているにもかかわらず、抽象化したことを忘れ、その結果の方を「具体的なもの」だとわれわれは思い込んでしまうという錯誤のことである。元明―元正の間の継承に関しては、「男系」や「女系」と言う「具体的な状態をいったん抽象化」した言葉に振り回されて、「具体的な状態」を忘れてしまってはいないだろうか。ここでの「具体的な状態」と言うのは、「男系」や「女系」ではなく、「父方を遡れば神武天皇にたどり着く」ということである。それが全ての継承に共通する具体的な事柄である。われわれは天皇の系譜が「男系」か「女系」かという「抽象化された」言葉で考えていたために本質から外れてしまったのではないだろうか。重要な具体的状態とは、「父方を遡れば神武天皇にたどり着く」ことであり、元明天皇と元正天皇はそれぞれ父方を遡れば神武天皇である。内親王という身位は、ここでは中心的な問題ではない。

 また「男系」という言葉は、「男」という文字が使われていることによって、対概念である「女」を反対に置き、「男系」に対しての「女系」という対概念を生み出す。本来は「父方を遡れば神武天皇にたどり着く」という一つの状態であったのに、抽象化された言葉を使うことにより、借用した言葉の違った意味をも持ち込んでしまっているのである。しかも、その「女系」が、どういった意図があるのかはわからないが、「男系」の系譜に一つでも「女系」の継承があれば全て「女系」の系譜という偏った文節になっている。これをオセロに例えていうなら、64マスすべて黒でなければ黒の勝利にはならず、一つでも白であるなら白の勝利というようなルールではないだろうか。もっというならば、一つでも白ならば盤面は全て白と言っているようなものでもある。本来なら「黒がいくつ、白がいくつ」と具体的に表現しなければならないところをどんぶり勘定で黒か白かを決める、しかも圧倒的に白の方が有利なように。男系と女系が混じっているならば「双系」のような具体的状況を表す言葉でなければならないのではないだろうか。

 よって私が主張していた「男系が日本の伝統である」ということも、この「具体的なものをとりちがえる間違い」を犯さないように言い換えなければならない。「男系」という言葉はもちろんだが、「伝統」という言葉も言い換えた方がいいであろう。なぜなら「伝統」に付随するたくさんの意味の抽象概念が、ことの本質を隠してくるからだ。例えば「こんな古い決まりがあった、実はあんな決まりがあった」というような、情報がたくさん出てくるが、それは「伝統」という言葉の意味の幅によって芋蔓式に現れた事柄ではないだろうか。「こちらの方がより正当な伝統である」や「歴史が短いから伝統とは言えない」などの正当性を問う議論や伝統と呼べる期間を問う議論を生み出す。私たちが過去を振り返り未来に繋げてゆくべき状態はただ一つではないだろうか。よって私の主張を言い換えると、「全ての皇位継承に共通することは、父方を遡れば神武天皇にたどり着くことなので、これを今後も繰り返す」となる。「男系男子」の「男子」については、前述の通り皇室の廃止を目指している勢力に対抗するためのものである。また女性天皇を容認するとしても、結婚をしないや子供を産まないなどの条件がついてくるので、これはもっと考察すべきだろう。

 ちなみに元明―元正の間の継承に関して、Wikipediaには次のように記されていた。「この見方は皇位の継承の先後のみに着目しており、神武天皇から続く血統の継承の観点からは女系血統の継承とはならないため、この見方における初代天皇は元明天皇となる。元明天皇がなぜ天皇であるのか、誰から何を継承したかの説明はできない。」

 女性・女系天皇の容認の理由はもっとたくさんあるようだ。ここでは全て紹介をすることはできないが、私のようなものはもっと耳を傾け思索を深めなければならないと思う。さもなければ、誤った行動をしてしまうかもしれないからだ。

 仮に私がいわゆる「男系論者」のまま、世の中が変わって女性天皇ひいては女系天皇が即位した場合、私はどうするのだろうか。「あんな天皇は認めない!」とクーデターを起こし、男系の天皇を即位させたりするのであろうか。もしくは手のひらを返して、「女系天皇が日本の伝統だ」というであろうか。

 哲学者の中村元は、南インドに伝わる「猿猫論争」というものを紹介していた。猿の子供は、危険に気づいた時、親猿に抱きつく。そして親猿がその危険から守ってくれる。一方、猫の子供は、危険には気づかず何もしないが、親猫は首根っこをくわえてその危険から守ってくれる。これは自力か他力かというような譬え話である。猿も猫も親が危険から守ってくれるということは、ここでは仏様が救ってくださるということだ。しかし猿の子供は危険に気づき抱き付かなければならない。仏教では「行」、すなわち修行をして救われるということに対応する。一方、猫の子供は何もしない。ただ親が助けてくれると信じているだけである。前者が自力本願で、後者が他力本願である。

 天皇の皇位継承について私は「キーキー」言っている。これは修行をしているのだろうか、もしくは、いたずらにその権威を貶めていたり、皇位継承をより困難なものにしているのだろうか。そもそも皇位継承に対して私にはなんの権限もないし、決定にはただ従うのみである。それを不服には思っていない。皇室に関しては、ただ授かるというような気持ちである。もし愛子さまが天皇に即位されたとしたら、おそらく素直に嬉しく思うのではないだろうか。三種の神器を継承し天皇として高御座に登られるその具体的な状況は、私たちの心を動かし、現在天皇について認識していることがらの超越した側面に気づかせ、それこそ私たちがとりちがえてしまった真の「具体的な状況」を悟らせるのかもしれない。「キーキー」言わずに、猫の子供のように「信」に突き進み、ひたすらに奉仕することが正解なのだろうか。かといって「父方を遡れば神武天皇にたどり着く」という継承を私たちの時代に終わらせてしまうのも、いいとは思わない。ふでのまにまに「キーキー、ニャーニャー」鳴いてみている。

令和6年6月17日

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