沈むもの 昇るもの

 言葉が生まれてくる場所、それは心の奥底であるという。心の奥底には、人間が日々経験する物事が貯蔵されている。それらは一つ一つでは言葉にはならないが、互いに影響しあって、条件がそろった時、心の表面に出てきて言葉となる。だから言葉は日々の経験を種とし、心の奥底を大地として根を張り、心の表面に届く言の葉を茂らせるのだ。
 このことを言語学者であり東洋思想研究者である井筒俊彦が、大乗仏教の唯識哲学の用語、薫習(くんじゅう)を使って説明している。この薫習という語は、言葉が生まれてくる過程を静的にまた神秘的に彩っている。この語はその漢字からも窺えるように、匂いをつけるというような意味である。曰く「人が、内的に外的に、絶えず何かを経験する、その一つ一つの印象が、無意識的に心を染めていく、丁度、香のかおりが、知らず知らず、衣に薫き込められていくように。」つまり、薫習とは、毎日の出来事や考え事が、心の奥底の意識できないようなところに貯蔵され、香のかおりが衣につくように、知らず知らずのうちに私たちの人格に影響を与えて、言葉を生み出すということである。言葉が生まれてくる神秘をうまく言い得ているように感じた。
 私はモーニングページというものを書いている。これは毎朝起きた時に、頭の中にあることを全て書き出すというものだ。意味が通じなくてもいい、とにかく書き出す。そのことによって創造性を高めるというワークである。例えば、仕事や人間関係の悩みを書く。書き出すと客観視ができ、良い解決策が浮かんだりする。また、やりたいことや理想の自分を書く。そうすると、イメージを持つことができ、実現に向けての具体的な行動をとることができる。私の場合は、離婚が原因のアルコール依存を克服することができた。
 モーニングページには文字通り言葉が書かれている。その時に気になっている流行りの言葉や、たいした意味も無く、辻褄が合わなかったり、荒唐無稽なものもある。これらの言葉も日々の経験が私の心の奥底で煙のように漂い、影響を与えてきた結果なのであろうか。目には見えない世界の話のことだから、証明する手立てが私にはないが、唯識哲学の論を借りればそういうことになる。
 以前に夢は無意識の産物であるという記事を読んだことがある。以下、wikipediaの記載内容を引用する。「フロイトによれば夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。」
 ここに先ほどの唯識哲学の論との類似点に気が付く。夢と言葉は同じようにして発生しているように思われるのだ。夢の素材は「記憶」から引き出されるわけだから、それは「日々の経験」であり、その選択方法は「無意識的」である。その後の「統合性」や「潜在的な願望を充足させるもの」、「自己表現」は該当する語はないが、人が言語で表している内容を考えると、文章になっている場合「統合性」を感じるし、さまざまな「願望」を「表現」していることも感じられる。また「潜在的」というのは、「無意識的」ということと似ているであろうか。
 何も考えずに言葉を書き連ねてゆくモーニングページは、文脈や論理という社会的な規則を度外視にして、「潜在的な願望を充足させる」行為かもしれない。夢の内容の乱雑さと、モーニングページの荒唐無稽さには、通じるものがある。夢を見ることで「潜在的な願望を充足させる」のであれば、同じように無意識から昇ってくる言葉を書き記すモーニングページも「潜在的な願望を充足させる」行為と言えるかもしれない。そのように考えると、私がアルコールに依存しなくなった事実に納得がいくような気がする。書き出した言葉が私の「潜在的な願望を充足させ」、アルコールに頼らなくても自己を維持できるようになったのだろうか。

 鎌倉時代初期の僧、明恵(みょうえ)は、

ながきよの夢をゆめとぞしる君やさめてぞ迷へる人をたすけむ

という和歌を詠んでいる。明恵は「夢記(ゆめのき)」という夢日記を生涯書き続けた。そこには夢の内容と合わせて、その分析、いわゆる夢判断も書かれていた。その分析は神秘的で非合理な側面と共に、とても合理的で冷徹とさえ感じるものもある。明恵は夢を客観的な事象として、また自らの意識と関係あるものとして、付かず離れずいい距離をとりながら、分析をしたのである。また、夢の記録や分析を僧としての修行の一つと考えていたようである。この和歌は、「夢をゆめと」知り、つまりその非合理を非合理として受け入れながら、「さめて」、つまり合理的にも捉えて、悟りを得、世の中の人を助けようという意味であろうか。
 無意識から昇ってくる夢と言葉を書き記すことは、「潜在的な願望を充足させる」と共に、悟り、いわゆる自己実現を叶えるものであるかもしれない。
 スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、「近代言語学の父」といわれている。言語の起源や歴史的推移を問題にするだけでなく、ある一時点における言語の内的な構造も研究対象にし、それによって言語を全体的に理解しようとした点で、近代的と考えられ、その後の構造主義にも大きな影響を与えた。
 そのソシュールは、言語をシニフィアンとシニフィエが表裏一体となって結びついたものであるとした。シニフィアンとは、音声表現、言語の表現面であり、たとえば日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖などである。シニフィエとは、言語の内容面であり、たとえば「イヌ」という音の表す言葉の概念のことである。これらが実際の犬と結びついて、言語として実用的に使用されているのだ。
 ソシュールによればこのシニフィアン、つまり音声表現は恣意的だという。要するに、「イヌ」という概念、シニフィエは、「Dog」(英語)というシニフィアン、音声表現と結びついても、「Chien」(フランス語)というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいというのだ。確かに、音声表現が変わろうとも、「イヌ」という概念であることには変わりはなく、実際の犬自体にも、影響はないであろう。
 このことを踏まえて、モーニングページと夢を考えた時、モーニングページに書き綴られた言葉と、夢に出てくるものは、無意識のシニフィアン、つまり表現面である。一方、無意識の中に貯蔵されているものは、シニフィエ、つまり内容面であろう。
 確かに先ほどの井筒俊彦は、種子(しゅうじ)という言葉も紹介し、このシニフィエ(内容面)とシニフィアン(表現面)を分けて考えている。種子とは、「漠然としていて曖昧な、輪郭のぼやけた意味」であり、まだはっきりとした意味を持ってはいないが、いずれ意味を持つようになるものとしての「意味可能体」であるとしている。日々の経験は無意識に貯蔵され、そこで煙のように静かに意識へ影響を与え薫習するわけだが、まずこの時にできるものが「種子」だとしている。つまり、まだ意味を持っていないが、いずれ意味を持つようになる「意味可能体」である。
 無意識から昇ってくる「夢」と「言葉」を書き記すことは、潜在的な願望を充足させると共に、悟り、いわゆる自己実現を叶えるものであるかもしれない、と書いたが、この時の「夢」や「言葉」は、恣意的であり、他のものでも代用が可能であるとするならば、重要なのはシニフィエ(内容面)であると言える。つまり無意識の中に貯蔵されているシニフィエを捉えることで、願望を充足させたり、自己実現を可能とさせる。
 がしかし、この無意識の中のシニフィエ(内容面)は、言葉になる前のもの、まだ意味を持っていないが、いずれ意味を持つようになる「意味可能体」であるから、それが指し示すものは人間にはまだわからない。それらを恣意的な言葉や夢の形式というシニフィアン(表現面)で認識する。ここにカントのいう「悟性の先天的形式」、つまり人間がわかるような形式がある。経験を分節し、言葉やものという記号に置き換える、このような単純化の操作が必要であり、さらに単純化されたそれらを再構成して関係性を作り、より大きな意味を構築してゆくのである。まさに言語が、ものに名前をつけて、文書を組み立て、それらを体系づけて、その体系に名前をつけるように。
 シニフィアン(表現面)は代替可能であるためシニフィエ(内容面)が重要であるが、そのシニフィエを知る手立ては、シニフィアンしかない。具体的に言えば言語、そしてここでは夢もその一つと考えている。夢はシニフィエを知るには、あまりにも抽象的で専門家にしかわからないかもしれない。言語は、もっとも良い手段と考えられるが、その特性上完全なものではない。それは、それぞれの言語の違いに目を向けるとわかる。例えば、英語ではリンゴを指す時、This is an apple.と言い、名詞の数量、つまり、an apple か applesかを考える。日本語では、数量をそこまで気にしてはいない。言語によって、注目するところが違うのである。また、日本語では、蝶と蛾を言い分けるが、フランス語ではどちらもpapillonといい、あえて区別しないという。日本では、蝶は美しく歓迎されるもので、蛾は気持ち悪く避けたいものだという認識があるが、フランスではあまりないという。日本では、それらを区別しなければならない問題意識があったが、フランスにはなかったということだ。
 このように言語によって、事物の切り取り方はさまざまで、一つ一つは些細なことかもしれないが、それらが積み重なることによってその違いは大きくなり、世界を見渡した時に感じる驚きがそれを物語っている。
 言葉の限界や人間の至らなさを感じることは多いが、しかし我々はその限界や至らなさをいたわりながらも越えなければならない。なぜなら、頼るものはそれらしかないからだ。
 無意識の中に沈んでいく経験は、外からくるものだけではなく、自らの行為も含まれる。言葉が生まれてくるその深淵に、また自らの言葉も沈んでゆき、新たな言葉となって昇ってくる。やはり沈める言葉と昇ってくる言葉とには相関関係があるのだろうか。世に使われている言葉に心を痛めながら、筆のまにまに何かを沈めている。

令和5年8月24日

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