みんなで祝おう

 2月11日は「建国記念の日」である。「国民の祝日に関する法律」で規定された、文字通り「日本の建国」を祝う日である。昭和23(1948)年7月まではこの日を「紀元節」といった。「紀元節」の「紀元」とは「暦の始まり」、「歴史のはじまり」、「日本の国のはじまり」という意味である。この日には「紀元節祭」という祭祀が行われている。明治6年1月29日に、宮中三殿の皇霊殿において行われたのが最初である。その趣旨は初代神武天皇の即位を祝うことである。神武天皇が御即位された時に日本という国が始まったのだ。『日本書紀』によると、今年で2684年の間、日本は存在しているのだ。
 日本がこんなに長い歴史を持っていたことは、神主になるまでは知らなかった。神武天皇即位の年を元年とする暦の数え方を「皇紀」という。「皇紀」は明治の初期に作られ、主に昭和の初め頃に多く使われていた。ちなみに「皇紀」の根拠となっている『日本書紀』の紀年は、信頼性に疑問があり、神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことを歴史的事実とするには、歴史的証拠に欠けるとされている。この件については私には証明できないことではあるが、日本独自の紀年があることは大変嬉しいことである。西暦に660年を足すと「皇紀」となる。だから今年は2024年+660年=2684年になるわけだ。この日本独特の暦を私たちの時代には、学校でも教えられてはいなかったのである。神主になるための勉強をしていた時、「皇紀」をはじめその他日本について多くのことを自分が知らないことに驚いた。そしてなぜそれらが学校で教えられてこなかったのかという理由に愕然としたのであった。
 私は本当に世の中のことを何も知らなくて、立命館大学に入学をして、卒業後神主の道に進むことになったのだが、それが大袈裟にいうと「極左」から「極右」への思想転換になっていたことに、私は後から人に言われて初めて知ったほどに、何も知らなかったのである。
 日本の古いことが学校では教えられなかった理由は、簡単にいうとアメリカが、日本がもう2度とアメリカに逆らわないようにするために、日本を貶める教育を推し進めたことだ。その第一世代が「団塊の世代」である。そして今年46歳になる私は親が「団塊の世代」にあたる世代で、小さい頃はその影響を多分に受けて育った。なんとなく覚えているのが、「昭和天皇は戦争をした悪い人だ」とか、「日本の文化は古臭いけど、アメリカのものは素晴らしい」というような言葉を両親から聞いていたような気がする。
 そんな影響の中育った私は、意識することもなく「極左」の立命館大学で西洋哲学を学んだ。しかし研究していたライプニッツの哲学に東洋的な要素があったことから、仏教や神道にも興味を持ち、今では「極右」の皇学館大学神道学専攻科を出た神主になっている。ちなみに「極左」や「極右」という言い方は、話をわかりやすくするために使っている。左や右で思想を分けることは一見便利で、今でも知らない人や思想に出会うとそういう分け方をするが、詳細に対象を知ろうとするとき、その区分けは邪魔になることが多々ある。
 私が通っていた皇學館大学の教授に新田均先生がいらっしゃる。この先生が書かれた小冊子『「国民の祝日」の意義を考える〜建国記念の日を迎えるにあたって〜』というものがあり、ここに書かれていることは「建国記念の日」についての深い理解を促すとともに、私の「極左」から「極右」への転換を後押ししたものである。
 この小冊子には、まず「国民の祝日」は「私たちは同じ日本人だ」「この国は私たちの国であり、私たちが支えているんだ」という自覚を深めるためにあると述べられている。共に祝うことで仲間であるという意識や、この仲間同士助け合って国を守ろうという気持ちを持つためにあるのだ。ではなぜそういった自覚が必要かというと、国民国家である日本の担い手、つまり日本を支えているのは日本国民であり、国民としての自覚がなければ、自由を享受するだけでなく義務も果たさなければならないという気持ちが起こらないからである。自分の国であるという意識、だから恩恵を受けるとともに国を守らなければならないという現実を見ることができなくなるからだ 。このことは重要で、心地よい仲間意識は簡単に持つことができるかもしれないが、この仲間、そして国土を守るという意識や覚悟を持つことは、なかなか難しいことである。現在、現実を見ることができずに国を守らずに権利ばかりを主張する人が多くいるのを目の当たりにすると、その困難さは容易に理解することができる。しかし困難だからといって国を守る義務を怠れば、仲間や国はもちろん自分自身も守ることはできない。つまり国家にとって大切なことは、国民が「自覚」を持っていることであり、その自覚を保つために、そしてさらには「国民としての一体感」を作り出すために、国旗が創られ、国歌が創られ、国家的な儀式が創られ、「国家的な祝日」が定められていったのであるという。
 「建国記念の日」が定められたのは、明治維新の直後の明治5年11月15日(1872年12月15日)であった。この頃日本は近代国家となるためにその精神的な中心を探していた。それまでの日本は「封建制度」によって「封建意識」が根強く残っており、これは一言で言うと「バラバラ」の状態であった。江戸時代には徳川幕府が日本の政治と軍事を独占しており、国民の間には今のような「国」という意識はなく、各大名が支配している「藩」がその代わりであった。武士たちは自分が仕えている藩主には忠誠心を持っていたが、その忠誠心は日本全国に及ぶものではなかったのである。そのため外国から日本を守る義務は徳川幕府にしかなかった。さらには身分も士農工商に分けられ、身分ごとに権利や義務も違っていたために、人々の意識は「バラバラ」であったのだ。その「バラバラ」の意識をまとめるために精神的な中心を必要としていたのである。まとまらなければ、日本全国を守ることができなかったのである。
 また「バラバラ」の状態では民主主義は成り立たない。民主主義の原則は3つある。①多様な意見があること、②それらを自由闊達に討論できること、③自由な討論の結論が出れば、自分の意見ではなくても、決まった意見を自分の考えとして率先して実行すること、である。当時政治体制は、幕府の政治的独占である「幕府専断」から、幕府以外の大名の意見も聞いて政治を行う「公議政治」へと移行していた。話し合いによる政治がうまくいくためには、その話し合いに参加している人々の間に、「私たちは仲間である」という一体感が必要だったのである。これらのことから、当時の日本には全国を統一する中心が必要であったのである。
 その中心として「古い時代の記憶」を当時の人々は思い出した。それは、一人の天皇のもとに日本全国が統一されており、人々はおおみたから(天皇の宝物)であったという国民的な記憶である。具体的には大化の改新の頃の律令国家であり、土地も人民も全て天皇のものであった時代のことである。この「古い時代の記憶」が、封建時代を経てからも日本人の中に残っていたのである。例えば、次々に登場した有力な武士たちも「征夷大将軍」として天皇の武官であるという立場をとったし、学問の世界でも君主の徳と臣下の忠誠を強調する「朱子学」が発達し、「日本の本当の君主は天皇であり、幕府は天皇から政治を任されているに過ぎない」という理論、「大政委任論」が常識となっていた。その他天皇を重んずる「国学」も発達したのである。
 つまり一方では藩や身分などによって「バラバラ」の封建意識があったが、他方では時代が降るにしたがって天皇を尊重し、「天皇の下にある同一の民」という意識も強まっていたのである。この「古い時代の記憶」をもとに、天皇が中心とした近代国家としての日本が形作られていったのであった。日本の近代化は成功し国力は増したが、もし日本に天皇が存在しなかったら、あるいは日本人の間に天皇を仰ぐ心、尊皇心が存在しなかったら、はたして日本国民は封建意識を乗り越えて一つにまとまることができただろうかと、新田先生は述べている。
 先生のお話で最も印象に残っているのは次のことだ。「日本の中心である天皇の一番の仕事は、国家と国民の繁栄と安全を神々に祈られること、つまり、お祭りをなさることである。天皇陛下は日本最高の神主なのだ。」この言葉は、私に神主としての誇りと覚悟を与えてくれた。漠然とした天皇像が明確になり、そして自らの役割を確信したのであった。天皇は国民のために祈られ、私はそれを支えるのだ。さらに新田先生は、「日本の中心者である天皇のお仕事の第一は、神祭りによって国家国民の繁栄と安全を祈られること。私たちは、そのような祈りを何よりも尊いものとして、国家の中心に仰いでいる国民なのです。」とも述べられ、日本の国柄が、「みんなの幸せを祈る」天皇を中心としており、「みんなの幸せを祈る」ことが最も尊いことであるとしているものだということを私に教えてくださった。このことは日本人としての誇りを持つことと、またこの国に貢献したいと思うようになったことのきっかけである。
 「建国記念の日」は、みんなの幸せを祈る天皇、そしてそのような天皇の祈りを中心として一つにまとまる日本国民を祝う日なのだ。
 2月10日は母の誕生日である。若い頃は親に対して反抗的でろくに祝ったこともなかった。意味もなく父や母のことを嫌っていたこともあった。が、ここ10年ほどは花とケーキを買って顔を見にいっている。私も少し大人になったのかもしれない。両親への感謝を行動によって表すことが素直にできるようになった。73歳になる母は、「団塊の世代」の終わりの頃の人だ。この世代の人は「日本は悪い国だ」「天皇は悪い人だ」という教育を受けたようだ。私の両親は、そういった思想に自覚的ではないが、影響は多分に受けており、二人から愛国心や尊皇心を感じたことはあまりない。それは先に述べた「みんなの幸せを祈る中心」から切り離された状態なのであろうか。
 ポストモダン思想は、マルクス主義の失敗の反省から現代社会を激しく批判した。そのことを竹田青嗣氏は、「現代思想家は、おしなべて社会から国家の『権力』や『法』を取り払ったときに真の『正義』が可能となる、という素朴な、しかし強固なロマン主義的表象から逃れられないでいる。」と指摘している。日本に当てはめると、「天皇という権力」を取り払ったときに「真の正義」が実現されるとなるだろうか。しかしそれは素朴なロマン主義であるという。さらに「近代の歴史を通覧すれば、近代国家が、人権、選挙、社会福祉を確保するための諸制度を徐々に整備してゆき、そのことではじめて人々に『自由な人間』という観念とその実現可能性を与えてきたことは疑えない事実だろう。」と述べ、近代社会にある権力や規律を全く取り払ってしまうことを諌めている。ここでは「幕府専断」から「公議政治」となり「天皇という中心」の働きによって日本の繁栄があることを忘れてはならないということになるだろうか。そしてこれらポストモダン主義の現代社会への批判は、「反近代という強固な動機」がなければありえず、批判するための思想であるという。必要なのは「現状の不十分さへの批判」であり、ポストモダン思想は「近代社会の諸制度が持つ負の側面を描くという点ではきわめて大きな仕事をしたが、われわれが近代社会に代わるどのようなオルタナティブ(代替案)を持ちうるかという展望は一切ない。」としている。
 このようなポストモダン思想は、親に反抗していた頃の私に似ているかもしれない。ただ反抗するためにあって、現状を少しでも良くしようという小さなアイデアもない。ただ素直に先人に感謝し、そこから始めれば、みんなの幸せを実現できるかもしれない。これは連想法によるロマン主義かもしれない。しかし、過去に思いを馳せ、過去と繋がりを持つことは、親と交流するようにあたたかなものであると思う。私の両親にも祖先との繋がり、「みんなの幸せを祈る中心」との繋がりを持ってもらって、あたたかく、そして安心感のある気持ちになってもらいたい。「建国記念の日」をみんなで祝おう、ふでのまにまにそんな単純な思いを抱いたのだ。

令和6年2月15日

コメント

タイトルとURLをコピーしました